ジェイソン・モーガン著「バチカンの狂気」(ビジネス社)を読む | 世日クラブじょーほー局

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バチカンの狂気

 

 モーガン氏は敬虔なカトリック信者。ただ彼は過去の学生時代、ミサから縁遠い日々を送ったそう。それを神がある神秘的なやり方で「故郷」たる信仰へと呼び戻されたと語る。本書執筆の動機をモーガン氏は、「戦う教会」を応援したいと。その闘争の相手は、「世間」「肉体」「サタン」だと宣言している。

 

 カトリック聖職者による信者への性的虐待のニュースが出ては消え、出ては消えを繰り返している。いま旧統一教会に対して、「組織性」「継続性」「悪質性」の3つが解散請求要件として挙げられ、今後裁判で争われる見込みだが、カトリックは即すべて満たすと言える。

 

 モーガン氏は、「カトリック教会は長い間、たくさんの国における未成年者に対する数えきれないほどの性的虐待について知っていたにもかかわらず、それを隠蔽し虐待をしていた、またはその容疑のある神父や司教に関して、その犯罪を警察に報告しませんでした。それどころか、教会はこのような聖職者を、違う教区に異動させるか、引退して修道院に入ってもらうかなどの措置しかとりませんでした」と語るが、これは過去形ではなく、現在進行形。つける薬がないとはこのこと。

 

 本書が指摘するフランスのある報告書によれば、1950年以降、同国で推定33万人の未成年者が性的虐待を受けたという。フランスだけが突出しているかはわからない。だが、フランスだけが特殊な条件下にあるわけでもない。後は推して知るべしで、質も量も世界遍く及んでいよう。これでは西側陣営にあっても「権威主義国家」と呼ばれる中朝露を全く笑えないどころか却って彼らから蔑まれるであろう状況。日本のカトリック信者数はたかだか40万で、みんな一瞬眉をひそめてもそれ以上は突っ込まない。おぞましい虐待の現場は遠い異国の地という感覚か。12億という巨大すぎる世界規模の伝統宗教に抗するすべもなく、マル暴のように御礼参りがあるかは知らぬが、触らぬ神に祟りなしと洞ヶ峠を決めこむのだ。

 

 ではこの問題の本質は何か?聖職者の独身制は深く関わると思われる。2016年公開の映画「スポットライト」の中で、長年、この問題に取り組んだ人物が衝撃的な研究結果を示す。いわく、虐待した神父の精神年齢は12~13歳。統計から神父全体の6%が小児性愛者。独身制(禁欲)をきちんと守っているのは50%。そしてこれは精神医学的現象だと。

 

 もはや独身制は形骸化しているというより、ここまで来れば害悪でしかないと言う以外ない。むろん、本書で紹介されているビガノ大司教など教会改革に力を尽くされる敬虔な聖職者もいらっしゃるのも事実。しかし、先にあげた数字や子どもに対する性虐待という犯罪の特殊性を鑑みればすでに限界では? 

 

 本書においてマイケル・ヴォリスという元同性愛者のカトリック教徒が「教会の中にはゲイである人々が蔓延しており、今や同性愛を押し付けてくる神父、司教、そしてフランシスコ教皇までもが、禁じるどころかむしろゲイがはびこる手助けをしている現状」だと痛罵。またマイロ・ヤノプスという英国のカトリック信者は「(自分が)子どもの頃、神父によって性的虐待を受けた」と言い、彼が2017年に発表した回顧録の『デンジャラス』で、「この虐待は大きなトラウマとなり、自分がゲイになったことに深く関わっている」と証言。「神父、司教、大司教、枢機卿などの中にはゲイである人が数多く存在しています。…彼らの目的の一つが教会を内部から破壊すること」だとモーガン氏。なお前掲した「スポットライト」の被害者団体の代表者は、自分たちを「生存者」と表現。虐待そのものも当然酷いが、人間不信、家族崩壊、こころの拠り所だった信仰まで奪われ、はては自殺にまで追い込まれているというのだ。「内部からの教会破壊」が目的なら、結婚の解禁で済む問題でもあるまいが、流れを変えるインパクトを持つと思われる。

 

 このカトリックの性虐待問題を頂点として、LGBTや同性婚、加えて昨年来、俎上に上せられた旧統一教会やエホバの証人などの宗教2世問題などなど、今ここへきて、「性」、「結婚」、そして「家族」を巡る問題や混乱が急速にクローズアップされてきているのは、意味があることでは?

 

 本書で、さるカトリック信者の書簡を通じて、「ファティマ第3の預言」について言及されている。「ファティマの預言」は、1917年、ポルトガルのファティマで、ルチアら3人の子ども達の前に現れた聖母マリアが伝えた3つの予言。ローマ教皇庁が正式に奇跡と認め、第1と第2は公開済(それぞれ第二次大戦の勃発とロシア革命および共産化ドミノ)だが、第3の予言は謎。その内容を当時のローマ法王が知り、卒倒したと伝わる。本来、聖母はこれを1960年に公表するよう指示したようだが、教皇庁は逆に封印。シスタールチア(2005年没)は、その内容について神と悪魔の最後の戦いは「婚姻と家族」だと言い残したという。封印解除が待たれるが、各人が本心に尋ね求めれば悟れないだろうか。「求めよさらば与えられん」。

 

 ただそうであっても何もカトリックの教義がおかしいと言いたいわけではない。世界12億の信者はなおいま、真摯に教会に通い、生きる規範や心の拠り所としている。人は頭を低くして世の真理や神秘を受け止めることを忘れてはならない。ただの一人も自らの意思で生まれた者はいない。一方的に与えられたと承知すべきだ。モーガン氏のクリスチャンとしての信念の言葉を紹介して終わる。

 

 「(カトリック)信者は、ミサを通してイエスの血と肉を自身の中に受け取る。…しかし、なぜこうなるのか、どうすればこうなるのか、どのような過程でこうなるのかということは、人間には知ることが許されていません。(神が創造した)宇宙の中に住み、様々な限界を持って生きている私たち人間には、神の秘跡を理解することは不可能なのです

 

 「真実の平和とは、人々が自分の心を見つめながら自分に正直に生き、自分が犯した罪の償いをきちんとし、隣人に手を差し伸べ、彼らの幸せを願い、道徳的に正しい人生を送っている人々の住む社会にもたらされるもの

 

 「すべての人の顔にイエスのお顔を見ることがカトリックの理想。…この考え方では、そもそも自分が所有している物はない

 

 「アッシジの聖フランチェスコは、…ハンセン病の患者を抱きしめて接吻し、汚いと思い絶対に触れたくないと見て見ぬふりをしてきた人々を自分と同じ人間だと心で認めた瞬間が彼の人生の大きな転機になりました。彼は清貧という思想と態度を第一義にしていました。イエスの清貧の生涯を思い、貧しいことこそが、神の御心にかなうと、所有することを否定したのです

 

 心ある人士は拳拳服膺を。