映画「せかいのおきく」を観る | 世日クラブじょーほー局

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 映画の題材で、やっちゃいけないのは、エログロはもとよりだが、ゲロや糞尿などをモロ映し出すなどタブーというより、興行として成り立つまい。まして、それが全編に登場するとなれば…。阪本順治監督はあえて、その禁忌の領域に踏み込んだ。今必要なメッセージを伝えるために。

 

 物語の舞台は、幕末の動乱期の江戸。下肥買い(糞尿汲み取り)の矢亮(池松壮亮)と紙屑拾いだったが、割りの良さから矢亮の相棒となった中次(寛一郎)、そして、武家の娘でありながら落ちぶれて長屋住まいとなり、寺小屋で子供たちに読み書きを教えるおきく(黒木華)らが繰り広げる日常を描く。

 

 序章「江戸のうんこは、いずこへ」からはじまり、第一章「むてきのおきく」、第二章「むねんのおきく」、第三章「恋せよおきく」、第四章「ばかとばか」、第五章「ばかなおきく」、第六章「そして舟はゆく」、第七章「せかいのおきく」、終章「おきくのせかい」からなる活動大写真の風情だ。

 

 正直言って、本作の全編を直視し続けることはできなかった。主人公の一人である矢亮は下肥買いを生業とする。否が応でもその作業シーンは全編を通じて登場する。ただ、撮影の仕方によっては、ややズームアウト気味だったり、人物にフォーカスするなどで済ますことも可能と思える。だが、阪本監督は容赦ない。汲み上げたモノ自身、肥溜めの中のそのものに、果敢にズームインしていく。救いは全編モノクロということ。これが全編カラーしかも4Dともなれば…、うげっ! ま、それは端から想定外だろうが。ただ、瞬間的にカラーで映るけどね…(泣)。

 

 撮影に使った糞尿は、形状はもとより、色まで忠実に再現していたのだろう。さすがに匂いまではないと思うが。作り物とは言え、演者の苦痛たるや察するに余りある。いくら仕事とはいえ、池松と寛一郎には脱帽する以外にない。池松に至っては、こぼれたそれを素手でかき集めるシーンもあるのだ。

 

 ま、ここで、演者の苦労に言及したところで、結局、それは演技に過ぎない。下肥買いは実在したわけで、そこに思いを致さなければならないのだ。そもそも本作制作の動機は、SDGsだったとのこと。江戸時代、ためた糞尿を畑にまいて循環型社会を成立させていて、これを見習う必要があるとかなんとか。それもわかりはするが、さしもの阪本監督も時代の潮流に乗っからざるを得なかったのかとこの部分には失望した。ただ、それだけではあるまい。「低い視座から、しかも汚いところから社会を眺める映画」とも語っている。

 

 これに当方なりに敷衍すれば、下肥買いは、最下層の人間が生きるために生業としたものだ。だが、当時、これなしには社会が成り立たなかったのも事実。作中、長雨で、おきくらが暮らす長屋の共同厠が溢れ出して、付近一帯がクソだらけになる事態が描かれる。誰かがやらなければ社会は回らないのだ。その昔、岡林信康が山谷ブルースで「俺たちいなくなりゃ ビルも道路もできゃしねぇ」と歌ったように、矢亮もその意気だ。しかし、今では有難いことに、上下水道が整備され、バキュームカーさえ見ることは珍しい。それどころか、自分が気張ってした”それ”さえ、目にせずとも、レバーを引けばグッバイだ。

 

 現代スマート社会は、汚いもの、なるたけ目にしたくないものは隠してしまう。「臭いものには蓋を」と。それで済むものもあろうが、本来、人間が生きていく上で密接に関わり、避けて通れない本質を見失ってはいまいか。糞尿の処理もそうだが、親族などの「死」、家畜の屠殺などなど。食に関してはスーパーやコンビニに行けば全て事足りるが、その生産過程に触れることで、命の大切さや感謝の念が醸成されていくはずだ。

 

 それはともかく、おきくの父である源兵衛(佐藤浩市)が中次に「せかい」って知ってるかと聞くシーン(二人は実際の親子)。「わからない」と中次。源兵衛は武士ゆえに、時代の情勢に敏感だったこともあったろうが、市井の人々は中次と似たり寄ったり。ただ、「今」を懸命に生きることが全て。そして義理・人情…。

 

 おきくに芽生えたほのかな恋…。それはまさに泥沼に咲いた蓮の花のごとし。幕末の動乱は矢亮たちをどこへ導くのか…そしておきくの恋の行方は…!?

 

(監督)阪本順治

(キャスト)

黒木華、寛一郎、池松壮亮、眞木蔵人、佐藤浩市、石橋蓮司ほか