映画「聖地には蜘蛛が巣を張る」を観る | 世日クラブじょーほー局

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 イランの聖地マシュハド。その名の意味するところは「殉教地」であり、19世紀に12イマーム・シーア派の第8代イマーム・レザーがこの地に埋葬されたことによる。

 

 夜のとばりが降りる頃、街角にへジャブ姿に派手めのスカーフを巻いた女たちが立ち始める。娼婦たちだ。

 

 冒頭登場した娼婦は、まだ幼い子供がおり、年老いた母親とともに狭いアパートに3人で暮らす。一日3~4人相手しないと生活できないという。そこへ、バイクに乗って現れた彼女を誘う初老の男。その薬指には宝石が付いた指輪…。彼女が所持金を確認すると素早く後部座席に跨り、二人は闇夜に消えていった…。これがイラン史上空前の16人連続娼婦殺害事件の始まりだった。

 

 本作は2000年から翌年にかけて実際に起こった事件に基づいている。猟奇的であることには違いないが、「羊たちの沈黙」「セブン」「ボーンコレクター」のように、犯人を推理することがメインテーマではない。事実、犯人はほどなく正体を現し、殺人の具体的な描写が展開していく。それはそれは目を背けたくなるエグいシーンばかりだが、特徴的なのは、犯人は女を”始末”してすぐ、地元の新聞社へ電話を入れ、犯行声明を出すこと。「これでまた街が”浄化”された」と。

 

 厳格なイスラム国家であるイラン。イスラム法に基づいて国家運営され、道徳警察が見廻る。売春は当然違法であり、イスラム法では重罪。だが、本作がフィーチャーした事件当時、マシュハド市内だけでも5000人の娼婦が存在したという。しかもほとんどの娼婦が麻薬にも手を染めていたことを本作は示す。

 

 売春は最古のサービス業とも言われ、古今東西いつの世にも存在した。売春婦がいるから買う者が現れるのか、買う者がいるから売春婦となるのか。飲酒と同様、人間の本能にもとづくもので、倫理的、宗教的にタブーでもなくすことは難しい。さしものイランでもこのザマであり、宗教によっては欲望そのものを邪悪とするものや、カトリックの司祭などは独身制だ。

 

 だが本来、生命を生み出す行為であり、旧約聖書で神は人間に対して、「生めよ増えよ地に満ちよ」と祝福している。カトリックの司祭による信者虐待もこの矛盾から表出するものだ。ただ、誰も好き好んで見知らぬ男に、しかも違法を承知で体を売る女もいまい(小遣い稼ぎの援交など異常そのもの)。背景には貧困があり、そこに男が付けこむ仕組み。本作では、主役である気鋭の”女性ジャーナリスト”が危険を顧みず、彼女たちの人権や尊厳のために、勇猛果敢に斬り込んでいく。

 

 作中「街を浄化してしている奴を警察が捕まえるか?」という被害者遺族の声。また、事件の裁判では犯人を英雄視する動きも。事件をめぐるイスラム国家ならではの影響とともに凶行に及んだ男の奥底に沈殿した闇…。正義とは?道徳とは?法とは?幸福とは?信仰は人を救うのか?かえって混乱と苦悩を生むのでは?ならば宗教の使命は?イランという日本と対極にある国家で起きた事件を通じ、あらためて考えさせられる作品。

 

(監督)アリ・アッバシ

(キャスト)メフディ・バジェスタニ、ザーラ・アミール・エブラヒミ、アラシュ・アシュティアニ、フォルザン・ジャムシドネジャド、アリス・ラヒミほか

★デンマーク、ドイツ、スウェーデン、フランス合作