読売新聞1月29日付、1面および社会面で「許すな わいせつ教員」(上)の記事。関東地方の二つの小学校で、5年半にわたって7人の教え子にわいせつ行為を繰り返し、強制性交罪や児童買春・ポルノ禁止法違反罪容疑で逮捕された30代の男性教員に、2019年12月、懲役14年の刑が言い渡された。
この教員は、「忘れ物をした児童を『指導』と称して空き教室や倉庫に連れ出し」、「担任としての立場と信頼を悪用し、児童の年齢と性格に応じて、ある時は目隠しをし、ある時は『傷の状態を確認』と伝え、意のままに従わせてわいせつな行為に及んだ」。
怪しい兆候はあったようで、「児童と私的なメールのやり取りをしている」「中学校の運動会に無断で訪れ、写真を撮影していた」「児童とイチャイチャしている」などの情報が校長にも入り、止めるよう注意されてもいる。それでも犯行が繰り返されたのは、「教育熱心で信頼していた」(歴代校長)、「厳しいけれど面倒見が良い先輩だった」(元同僚)という外見上の姿を額面通り受け取り、寸分も疑わなかったことにある。これがカムフラージュだったかはわからない。
この教師本人いわく、「欲望のコントロールができなかった。誰かに相談すればよかった」と。ペドロフィリア(小児性愛者)であり、本来矯正の対象だ。どういう経緯でそうなったかはわからないが、彼に良心のかけらがあれば、自分の異常を認め、罪を認め、しかるべき人に相談し、治療へ向かうはずだが、その巧妙なやり口と用意周到さからしても確信犯に違いない。
被害児童は教師逮捕の報を受けて、「ざまあみろ」「やっと捕まった」「一生刑務所の中で生活して」などと公判で述べたという。こういうことを児童に言わせてしまったことも辛いが、この子らの心の傷による将来が心配だ。
さて、話し変わって、ナチス施政下のドイツでユダヤ人強制移送を取り仕切る中心人物だったナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、戦後、潜伏先のアルゼンチンでイスラエルのモサドに身柄を拘束される(1960年)。アイヒマンと初めて対面したモサド長官は唖然とした。なぜなら、極悪非道とは似ても似つかぬどこにでもいそうな普通のおじさんだったから。
ドイツの哲学者ハンナ・アーレントはアイヒマンについて、「自分の出世にはおそろしく熱心だったこと以外、彼には何の動機もなかった。彼は自分が何をしているのかわかっていなかった」と分析(NHKBSプレミアム映像の世紀「ナチス 狂気の集団」より)。
かくしてアイヒマン実験(ミルグラム実験)とその結果が導かれる。「環境と条件さえ整えば、人は誰でもアイヒマンになり得る」と。
誰でも…。言うまでもなく教師でもアイヒマンになり得るのだから、おいそれと信じてはならないのだ。もっとも、ナチ党員にもかかわらず、ドイツ占領下のポーランドで、強制収容所にいた1200人ものユダヤ人の命を救ったオスカー・シンドラーの名は燦然と輝く。
ともかく、「絶対権力は絶対腐敗する」(アクトン卿)―これは歴史の鉄則だ。ことに絶対化された存在とドグマに支配された組織や国家においてそれは顕著だろう。ただ、だから宗教はダメだではなく、絶対権力を生み出さないためのチェックアンドバランスを備えた組織作りと信賞必罰の徹底こそ肝要。正直者がバカを見る組織や社会ほど唾棄されるべきものはないからだ。
教師であれ、聖職者であれ、嘘つきと偽善者だけは許さない。