映画「判決、二つの希望」を観る | 世日クラブじょーほー局

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 舞台は、中東レバノンの首都ベイルート。小さな自動車修理工場を営むトニー・ハンナと建設会社の現場監督、ヤーセル・サラーメが白昼起こした小さな諍いが、やがてヤーセルによる暴力事件に発展。さらにそれは法廷闘争にまで持ち込まれ、国中を巻き込んだ一大論争へと突き進む。なぜそんな大ごとに?

 

 原告のハンナはキリスト教政党の熱心な支持者で、当初から抑え切れない感情を爆発させていた。一方、被告であるサラーメはパレスチナ難民。彼も表にはあらわさないものの、青白い炎を内に秘めていた。二人はモザイク国家である同国に横たわる歴史的、民族的、宗教的に抜き差しならない背景を象徴しており、一見、静穏な日常も一枚めくればマグマが煮えたぎり、一定の条件下で、いつでも発火し得る危険性を示す。

 

 裁判は控訴審へと進むが、二人の思いとは裏腹に、民族の瘡蓋を引っ剥がすような展開に抗するすべなく、その流れは内臓をも抉る激流となっていく。果たして彼らはこの裁判で何を願い、何を得るのか。平穏な日常は戻ってくるのか。そして民族和解の道はあるのか…?

 

 ハンナの思いは、ただサラーメから心からの謝罪が欲しかったのだという。だが、そのチャンスをみすみす葬ったのはハンナ自身の暴言であって、自ら招いた厄災といえた。

 

「 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ伝15章11節)

 イエスの言葉であるが、言葉の暴力は実際の暴力以上に人を傷つけ、時に死に至らしめる怨念の塊となるということを肝に銘じ、「自制心」を働かせるべきだ。口は禍のもと。子供じゃないんだから。いわゆるヘイトスピーチに関して、当方もその最たるものと断じざるを得ないが、ただ安倍首相に対しては、さらに過激な表現も逆に奨励されるというダブルスタンダードには我慢ならない。

 

 ハンナに与う。

「だから、何事でも人々からしてほしいと思うことは、人々にもその通りにせよ」(マタイ伝7章12節)

 

 さて、本作のパンフレットには「圧倒的な驚きと感動! 前代未聞の法廷劇に絶賛の声!!」と謳われ、鑑賞した識者の声がずらりと並ぶ。久米宏、茂木健一郎、木村草太、長野智子、森達也、住田裕子、荻上チキ…。ま、好きそうな映画だよなと思う。もっとも、北村晴男やフィフィの名前もあるので一概に偏っているとは言えまいが。

 

 ただ同国に限らず、中東和平問題についてはユダヤ、キリスト、イスラムの三大兄弟宗教がもともと、同じ神を信奉しているという原点に立ち返らなければならない。いやもっと言えば、すべての宗教は同じ根を持つという、万教同根思想に自分の信念をかなぐり捨てても、辿り着かなければならないのではないか。以下は、万民が自分の立場に置き換えて、拳拳服膺すべき言葉だろう。

 

 「アラブ人に対してどんな態度を取るかが、民族としての私たちの道徳水準が試される本当の試金石になります」(アルバート・アインシュタイン)

 

(出演)

アデル・カラム、カメル・エル=バシャ、カミール・サラーメ、ディヤマン・アブー・アッブード、リタ・ハーエク、タラール・アル=ジュルディー、クリスティーン・シュウェイリー、ジュリア・カッサール、リファアト・トルビー、カルロス・シャヒーン、ほか

(監督)ジアド・ドゥエイリ