仲村覚著「沖縄はいつから日本なのか」(ハート出版)を読む | 世日クラブじょーほー局

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沖縄はいつから日本なのか 学校が教えない日本の中の沖縄史

 

 著者の仲村氏が、常々口にする言葉に、「民族とは歴史と使命を共有した運命共同体」がある。無論、これは氏の出身地である沖縄を念頭においたものだ。ただ、一般的な理解では、今現在、沖縄が日本国であることは疑いないが、1609年の薩摩侵攻以前は、琉球王国が厳然と存在したわけで、その歴史を共有するなどというところまで考えが及ばないのが普通だ。

 

 本書では、政府が2006年11月1日、鈴木宗男衆議院議員の質問に答えるかたちで、「沖縄については、いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難…」との見解だったことを示し、なおかつ外務省のHPにある「外交史料 Q&A幕末期」には、黒船のペリー提督と琉球が結んだ琉米条約に関して、 「当時の琉球は、薩摩藩島津氏の統治下に置かれていましたが、他方中国(清国)との朝貢関係も維持するという『両属』の体制にありました」とあるのを紹介している。ただ、言われてみれば、政府見解もおかしいねと気付くが、琉球における中国王朝と日本との両属という部分については、違うんかい?と首をひねること必定だ。もっとも、そうであれば現在の沖縄において、中国語がもっと日常的に使用される実態があってしかるべきと思うのも確かだが。

 

 仲村氏は、かかる沖縄史観こそが、「琉球の帰属は未定で解決しておらず、日本が明治時代に沖縄県を設置して強奪した」と主張する中国を利していると警鐘を鳴らす。

 

  これに対する仲村氏の見解は明快だ。仲村氏は、1879(明治12)年の外交文書の中に当時の寺島正則外務卿や井上馨外務卿が、沖縄県設置に抗議してきた清国にあてた回答書を示し、その内容から以下のように解説している。「江戸時代の沖縄は薩摩の統治が隅々にまで及び、江戸幕府の幕藩体制にありました。しかし、幕府と薩摩藩の外交貿易戦略として、琉球を明や清との貿易拠点として活用するため、独立国の体裁をあえて保っていたのです。朝貢や冊封はそれを行うための外交儀礼にすぎませんでした。明国もそれを知っていて黙認していたことも、明らかになっています」。なるほどこれですっきりする。

 

 かくして仲村氏の啓蒙・渉外活動が実り、なかんずく仲村氏の議論に理解を示した山田宏参議院議員の国会質問によって、今現在の政府見解は、「沖縄については、寺島外務卿が沖縄は数百年前からわが国所属の一地方である旨述べていたことが確認されています。いずれにせよ、沖縄は長年にわたりわが国の領土であり、沖縄がわが国領土であることは、国際法上何ら疑いないところであります」と安倍首相が答弁し、前述の「確定的なことを述べるのは困難…」を修正させたのだ。

 

 また仲村氏は、政治的な意味だけでなく、遺伝学的にも日本人はアイヌや沖縄とともに縄文人を共通の先祖として、大陸や南洋の人たちとは、そのDNAが大きく違うこと、さらに1893年に来沖した英国人バジル・ホール・チェンバレンが、琉球語(ウチナーグチ)が日本の一地方の方言であることを文法上の類似性から導き出し、現代日本語からすでに消滅して久しい文法法則が現代琉球語に厳然たる姿で残存することを明らかにしたとして、その言語においてもルーツを同じくするということを示し、中共が強引に吹っかけてくる琉球独立論の根拠をことごとくはねのけて見せている。そして何より、日本が敗戦したのち、沖縄に独立運動が起きずに、復帰運動が起きたことこそがそれを雄弁に物語っているのだ。

 

 最後に、仲村氏が独立主権国家の守るべきアイデンティティの重大な要素として言語と国旗を挙げておられることは瞠目する。かつての欧米列強の植民地政策は、言語を奪うことに帰結したのではなかったか。「発展途上国では、高等教育は英語など植民地時代の旧宗主国の言語で行われることが多いので、大学を出ていれば英語を話せるのは当たり前なのですが、そうした国々の街には日本製の自動車や電気製品があふれているのに、自国の工業製品などほとんど見当たらない」(関岡英之・和田秀樹著「『改革』にダマされるな!」(PHP研究所)」状況であるのは自国語の重大性を示して余りある。ともかくも沖縄の日本語教育を守った人士として、山城篤男、川平朝申、そして初代沖縄県知事である屋良朝苗の名を挙げ、さらに屋良の昭和28年の国会参考人演説を紹介し、日本語教育と日の丸掲揚を守ることが日本民族の魂を守ることだと力説している。

 

 沖縄は歴史上も現在も日本を映す鏡であり、国家存亡をかけた国防最前線であるとともに、現代人が忘れかけた国家存立の要諦を図らずも浮かび上がらせてくれている。