佐瀬昌盛著「いちばんよくわかる集団的自衛権」(海竜社)を読む | 世日クラブじょーほー局

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いちばんよくわかる集団的自衛権/海竜社

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 7月1日に安倍内閣は、集団的自衛権行使容認の閣議決定を行った。これまでの“保有は認めても、行使はあいならぬ”という理解しがたい政府見解を180度転換するもので、安倍保守政権の面目躍如といったところだ。もっとも第一次、第二次安倍政権における首相の諮問機関だった「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が提出した報告書では、集団安全保障を含む全面行使容認も提言したが、安倍首相はこれを却下し、限定容認とした。

 また、与党で連立を組む公明党への配慮から、武力行使に際して、①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること②これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと③必要最小限度の実力行使にとどまるべきことなどの新3要件による歯止めを設けた。

 しかし、集団的自衛権は権利であって、義務でない。よってそれを行使するかどうかは、時の政権の情勢判断による。「集団的自衛権を行使できるようにしておくのは、それを行使しないで済む可能性の極大化を図るため」(佐瀬氏)であってみれば、安倍首相としても苦渋の決断だったとはいえ、不満が残るのも事実だ。

 本書の著者である佐瀬昌盛氏は、防大の名誉教授であるとともに、安保法制懇のメンバーの一人。本書がタイトル通りいちばんよくわかるかどうかは、やっぱり貴方(読み手)次第でしょうね。

 さて、そもそも個別的自衛権や集団的自衛権の根拠は、本書が示すとおり国連憲章第51条に明記されており、これらは、国家の固有の権利=自然権と解されている。この規定にあたっては、国連憲章起草の際、国連安保理の議決手続きに拒否権が導入されることになった結果、安保理の機能に危惧を抱いたラテン・アメリカ諸国の提案によって設定された経緯がある。

 よって、わが国も当然ながら、集団的自衛権を保有しているが、その行使においては、憲法上の制約から不可とされてきたのは、1981年の政府答弁書に由来する。その主要部分はこうだ。
 
 「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているのものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている

 佐瀬氏はこの中で、前段の「定義」に関する部分と後段の「憲法上行使不可」説の論法について夫々誤りを指摘している(定義部分は、軍事同盟締結国についていえる事柄であり、これは実態の側面の記述になっている)が、そもそもこの答弁書が出された政治的背景には、村田良平元駐米大使の見解も引きながら、「野党対策、わけても社会党対策」だったとしている。

 ではなぜこの政府見解が、81年からこの方、33年にもわたって維持されてきたのかといえば、発出当時は、米ソをそれぞれ盟主とする東西冷戦のまっただ中であり、国内的には、自社なれあいの55年体制という特殊な環境でのみ許容されるものだった。なにせこんな見解を有する国など他にどこにもない。わが国はこのアリバイ工作によって、面倒な政治リスクを回避し、経済分野に傾注できたであろう。

 しかし冷戦構造が終わり、地域、民族紛争が世界各地で起こってきた。わが同盟国であるアメリカは9・11を経験し、アフガン、イラク戦争を経てオバマ政権を誕生させた。同政権はリバランスを志向し、もはや世界の警察官たる地位を返上しつつある。一方、中国の強引な海洋進出をはじめとした覇権主義の問題、北朝鮮の核・ミサイル問題、シーレーン防衛問題と我が国を取り巻く情勢は、いよいよ厳しくなり、その安保環境は激変している。こんにち集団的自衛権の解釈適正化が、遅ればせながらもなされたことは、当然の帰結である。

 これに対して、野党の一部や、左傾マスコミから、やれ立憲主義を守れだの、憲法改正が筋だの下世話な批判が繰り返された。

 本書では、吉田茂が調印した旧安保条約においては、国連憲章において、すべての国が個別的および集団的自衛権の固有の権利を有するとした後に、「これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」とあり、すなわち吉田政権は、米軍駐留の継続というかたちで、集団的自衛権を行使したいと考え、実際それを行使したことを示し、さらに60年安保改定における岸首相の国会答弁を引き、岸政権は理論的に集団的自衛権の「制限的保有=制限的行使可能」という考えを持っていて、「保有」と「行使の可否」を分けていないと指摘した。

集団的自衛権の行使に関する解釈は一九五一年以降、一九八一年にいたるまで幾度か変遷してい」て、「解釈に変更はなかったという(内閣法制局の見解は)、真っ赤な嘘」(佐瀬氏)だったわけだ。何が立憲主義を守れだか…。

 佐瀬氏による集団的自衛権のあるべき定義はこうだ。

 「集団的自衛権とは、国際連合憲章第五一条の規定に合致して、すべての国家が個別的自衛権と並んで有する国家固有の権利であり、この権利は、自国以外の他国が武力攻撃を受けたとき、国際連合安全保障理事会が国際連合憲章に所定の任務に合致する必要な措置をとるまでの間、該当の被攻撃国を支援する目的で行使される。この権利の行使に当たっては、行使国はその旨を直ちに安全保障理事会に報告しなければならず、同理事会が本来の機能を発揮するとき、この権利の行使は終わる

 政府は来年の通常国会で、関連法案の審議に入る。あらためてだが、「国際情勢は『弱・中・強』というふうにエスカレートするのではなく、無段階的に変化する。このため、必要なのは細かい法規ではなく、政府の情勢見極め、決断能力である」(世界日報7月2日社説)と解したい。安倍首相が唱える「積極的平和主義」に適うべく果敢に取り組んでもらいたい。