第1回世日クラブ沖縄米軍視察ツアーが開催されました | 世日クラブじょーほー局

世日クラブじょーほー局

世日クラブ・どっと・ねっとをフォロースルーブログ。

 10月2日から4日まで3日間の日程で、「第1回世日クラブ沖縄米軍視察ツアー」を開催しました。
 

(摩文仁の丘から望む真っ青な海)

 沖縄はかつて琉球王国がありましたが、薩摩侵攻を経て、廃藩置県によって日本領となり、先の大戦では米軍との凄惨な地上戦が行われ、戦後は本土が主権回復後も米施政下に取り残され、復帰後は基地問題に悩まされという具合に、それは誠に同情すべきものがあります。
 

(海自第5航空群の講習)


(海自P3-C哨戒機)

 しかしその地政学的立場は、戦略的要衝として周辺諸国から熱い視線が注がれ、時々刻々の東アジア情勢は、いつまでもセンチに浸る時間を許してくれません。沖縄県民も現実に目を見開いて、いかにすべきか決断しなければなりません。
 

(牛島中将自決壕)


(護国神社)

 さて、本ツアーの初日は、護国神社での参拝をもって出発。続く海上自衛隊視察では、第5航空群の講習ののちP3-C哨戒機を間近で見学。その際あらためて隊員のみなさんの士気の高さをひしひしと感じることができました。そして南部戦跡を巡り、牛島中将が自決した摩文仁の丘をはじめ白梅の塔など英霊への慰霊と顕彰を捧げ、最後に平和記念公園で締めくくりました。二日目は米軍キャンプフォスターにてセミナー受講。その後、米海兵隊の第36海兵航空群のヘリ基地である普天間飛行場を視察。ここでは意外にも翼を折り畳んだオスプレイの雄姿を数機確認できたのみで、静かなものでした。台風襲来への備えだったようで、海兵隊の訓練はおろか、だだっ広い敷地一面に敷き詰められた芝生の緑がひたすらまぶしいまるでゴルフ場かと見紛う光景でした。


(バックナー中将慰霊碑)

 そして最終日は、旧海軍壕を見学。その資料館では沖縄戦の説明を受け、大田實少将の精悍な顔写真と決別電「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」を胸深く刻み込みました。それから首里城、孔子廟、福州園などを巡り、シナ朝貢の歴史に触れるともに、いまだにシナを憧憬し叩頭せんとする実態を目の当りにし、シナの文化侵略の深刻度は相当なものであり、この思想戦に打ち勝つべく啓蒙運動の重要性を痛感しました。


(白梅の塔)

 全体としてかなりタイトなスケジュールにも関わらず、参加者は口々に喜びの声を漏らしておられました。そして一同が、世界日報が沖縄で果たしている役割を肌で感じることができました。


(普天間基地のオスプレイ)

 さて沖縄では、来月16日に知事選と那覇市長選がセットされています。これは経済振興問題もさりながら、普天間の辺野古への移設問題をはじめ、尖閣を抱え、安全保障の最前線たる沖縄県の将来を左右する重大な選挙です。その判断はひとえに県民の良識に委ねられています。ではどう判断すべきなのか。はっきりしています。地元2紙「タイムス」、「新報」の主張の逆こそ「真」であり、沖縄の行くべき道だということです。


(米軍キャンプフォスターにて)

 当方は、沖縄にはもうひとつ言っておきたいことがある。梅澤裕という名を闇に葬ってはならないということ。そしてもう一人、赤松嘉次の名を。世界日報は、8日付「沖縄のページ」で、「梅澤元少佐死去から2か月」の記事を掲載した。梅澤氏は、慶良間諸島座間味島の守備隊長で、いわゆる「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告の一人(もう一人は赤松嘉次氏の実弟秀一氏。嘉次氏は提訴時すでに故人)。梅澤氏は戦後、渡嘉敷島守備隊長であった元陸軍大尉赤松嘉次氏とともに「集団自決命令を下した張本人」として地元メディアなどによって「極悪人」扱いされた。同裁判で原告側が主張した大江健三郎氏の「沖縄ノート」をはじめとする岩波書店が出版した書物においても同様だった。同裁判については、原告側の敗訴が確定したが、その高裁の判決の中で、軍命については「真実性の証明があるとはいえない」と明確に否定した。詳細は措くが、ともかくも軍命どころかお二人は沖縄の恩人であったのだ。その梅澤元少佐は、今年8月6日に永眠された。

 古今東西、受けた恩に仇で報いれば、それは人の道に反するのみならず、天に唾するに等しく、いずれ自分に降りかかる。その意味するところを今わからなくてもいい。しかし、この二人の名前だけは風化させずに心に刻んでおかなければならない。くれぐれも間違いなく。


(首里城守礼門前で記念撮影)

 最後に、今回お世話になりましたすべての関係者の皆様に、心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
「沖縄米軍視察ツアー」は今後、毎年11月を目途に行う予定です。