これ、調べたり、資料作ったり、書く事いっぱいあったりで結構大変なんですけど、やっぱり書いてて楽しいので復活です。
たまーに更新していく予定なので、うっすらと期待してください(‐^▽^‐)
※なお、過去の記事も見やすく整理してありますので、見てみてくださいね。
数十回にわたり、伊達政宗およびその一族や子孫、ライバル、伊達藩についての足跡(史跡)を紹介します。
今回は小手森城(おでもりじょう)の撫で斬りを紹介します。
当時の奥州勢力図。
小手森城のある大内氏の領土は水色の大内と書いてある所です。
また、文中の色文字と勢力図上の色文字も同色にしてあります。
大内定綱にコケにされ


※なぜ、政宗が怒っているかは、
大内定綱について その1(伊達政宗の足跡編43)
大内定綱について その2(伊達政宗の足跡編44)
をご覧ください。
この頃、蘆名家中では世継ぎ問題で内紛がたえず、家中は決して一枚岩ではありませんでした。
1585年5月、政宗は原田宗時に命じ蘆名氏への攻撃を開始します。
しかし、内応工作に失敗した事もあり戦況は思わしくなく、翌6月には米沢へと帰還しました。
政宗は思います。
「やっぱり、そううまくは行かないないよなー。
…ってゆーか、そもそもの敵は大内定綱だったよな

政宗は一転、大内領への侵攻を決意。
第一の攻撃目標を大内定綱の居城・小浜城の支城である小手森城に定めます。
小手森城は大内定綱によって築かれた山城で、定綱の甥・菊地顕綱(きくちあきつな)を城主とし、小野主水、荒井半内、石川勘解由、小形源五兵衛らが守っていました。
大内定綱も政宗に備え入城し、城は臨戦態勢をとります。
政宗は8月はじめに大内方の青木修理の内応を得た上で出陣。
岳父・田村清顕(たむらきよあき)と合流し小手森城を包囲。
8月23日に攻撃を開始します。
それに対し、8月24日には蘆名・畠山連合軍が加勢に現れますが、小競り合いを行ったのみ(伊達軍が援軍を退けています)で両軍は小康状態のまま対峙。
城にいた大内定綱は夜のうちにそーっと逃げ出します

8月27日、自城の落城を悟った石川勘解由が降伏の使者に現れます。
「城を明け渡すので、兵は小浜城へと退去させてくだされ。」
「伊達家へ降るなら助けよう。わざわざ兵を無傷で小浜城へ帰すことなど出来ん

「小浜城へ帰るのは命が惜しいからではなく、主・大内定綱とともに死ぬ覚悟だからでございます。
どうか、なにとぞー。」
「うるさいわアホ




政宗は降伏を拒絶し、伊達成実(だてしげざね)に城に火を放つよう命令します。
強風であったため、火は瞬く間に広がり、城は落城しました。
政宗は撫で斬りを命じていたので、城に籠っていた者は城兵、農民、そして牛馬、犬に至るまで老若男女を問わず皆殺しにされました。
その数は800とも1,000ともいわれています。(もっと少なかったとの説もあります。もちろん牛や馬、犬は数に入っていません)
奥州地方では、古来より各勢力同士が婚姻や養子縁組等を結び、互いに繁栄衰退を繰り返しながら滅亡せずに生き延びてきました。
つまり、合戦になってもお互いが姻戚関係や同盟関係にあったため、攻め滅ぼすまではしなかったのです。
政宗は撫で斬りを行うことでそのしがらみを破り、いつでも滅ぼす覚悟がある事を近隣諸国へと伝えたのです。
この戦いにより政宗は諸国から恐れられる存在となりました。
小手森城の紹介はこちら。
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