10月2日


台中宅へ到着。4年11ヶ月ぶりに義母ら家族に再会。


義弟嫁が出迎えてくれ、昨夜飛行機の到着が遅れたことを告げる。で、まずは義母にあいさつ。


うめさん


久々に会った義母は、元気そのものでホッとした。


日本名「梅」(うめ)を待ち、義母はそれを誇りにしている。うめさ〜ん!




夕飯はプロの料理人である義弟が、台湾家庭料理を振る舞ってくれた。


















久々に義弟の作った料理をじっくりと味わい、心ゆくまで堪能。


うまし、うまし、うまし!




台中家族勢揃い(かみさん撮影)


台中宅は、我が家の如く落ち着く、くつろげる家だ。



早いもので姪っ子は18歳になり、9月から大学一年生に。


しゅうおじさんとしては、姪っ子を日本へ留学させる企みでいたが、父親のDNAを受け継ぎ、料理の道へ進むことになった。


そのために高校は料理に特化した学校を卒業し、現在大学で栄養学も学んでいる。



つづく

前回訪台したのが、武漢ウイルスが猛威を振るう前であった。


本来、少なくとも一年に一度は訪れる予定であったが、上述の疫病状況により訪台が延び延びとなった。


台湾は世界で最も武漢ウイルスの抑え込みに成功した国だが、それでも基礎疾患のある義母のことを考慮し、これまで訪台を控えていた。


現在義母の健康状態が良く、今回やっとこさ訪台の機会を得た。義母に会わずして、わたくしの訪台はあり得ない。


やっとこさ、やっとこさ、やっとこさ、台湾へ。



わたくしが購入した台湾版Suicaの裏面が、なんともかわいい牛肉麺の絵であった。




台北駅入口通路を独占するホームレスの住処。首都台北の玄関には、こういう光景も垣間見れる。



これより高鐵(台湾新幹線)に乗り、家族が待つ台中へ向かう。



だだっ広い台中駅へ







さあ、思いっきり、久々の台湾を楽しむど〜!


つづく

かみさんに、久しぶりに燒餅(ショービィア)が食べたいとリクエストしたら、早速作ってくれた。


小麦粉を練って作ったものを総じて「餅」と呼称する。



パイのような生地に胡麻をまぶす。



台湾朝食のド定番、燒餅の完成。



ネギ入り卵焼きを挟むのが最も好きな食べ方。



我が台湾留学時代の思い出の味を堪能。



食べることは生きること


留学当時、現地で生きていくために、言葉はまず食べ物の名前を片っ端から覚えていった。その中には閩南語(みんなん語)も含まれる。北京語だけでは心許ない。




生地のサクサク感と卵焼きのしっとり感が口中調和。


第二の故郷を思い出しながら舌鼓を打つ。


うまし!うまし!


宮城県護国神社•英霊顕彰館

特攻の碑





三本木町出身 相花信夫少尉

昭和二十年五月四日沖縄にて戦死


相花少尉の遺言に、涙が止まらない。


母上、お許しください。


攻撃振武隊に加えられ、国恩に報ずることが出来ました。


父母上、信夫は勇躍征途につきました。


父母上、兄上の写真を飛行服に入れて。


父母上、信夫は子としてあるまじき無礼な言葉遣いを遂に最後まで矯正せず、唯々慙愧に耐えません。


母上、六歳の時より育てられし、生母以上の母上に対し「お母さん」と呼ばなかった信夫。母上は如何程淋しかったでしょう。


呼ぼうと幾度も思いましたが、面と向かっては恥いようで言えませんでした。


今こそ大声で以って呼ばして頂きます「お母さん」と。


中支(中国戦線)の兄の心境もまた等しいでしょう。母上、我々兄弟をお許し下さい。今、特攻の征途につくに際し思い残すことはありません。


人生五十年、自分は二十歳まで長生きしました。残りの三十年は父母上に、半分ずつ差し上げます。


父母上、では征きます。信夫は莞爾として敵艦必殺へ征きます。



以下、当ブログを閲覧している台湾の友人たちのために北京語に翻訳。


母親,請原諒我。


我被編入了攻擊振武隊,得以報答國家之恩。


父母親大人,信夫帶著勇氣踏上了征途。


父母親大人,我把哥哥的照片放進我的飛行服裡。


父母親大人,信夫作為兒子,沒有改正這種無禮的稱謂,實在感到慚愧且無地自容。


母親大人,我雖不是您親生但從六歲起便由您撫養長大,但信夫卻從未稱呼您為「母親」。母親,您應該感到很失望吧。


雖然我多次想要稱呼您為「母親」,但在面對面時總是感到害羞而無法說出口。


如今我終於能夠大聲呼喚您為「母親」。


在中國戰線的兄長此時心情應該也與我相同吧。母親,請原諒我們兄弟倆。如今,我即將踏上特攻的征途,無所遺憾。


人生五十年,而我活到了二十歲。剩下的三十年,我要分給父母各一半添壽。


父母親大人,那麼我要出發了。信夫正帶著笑容前往殺敵的敵艦路上。

妻から極めて重く衝撃的な話を聞いた。


妻の同胞友人が今年2月、一家4人で沖縄へ旅行中、全員が武漢ウイルス(コロナウイルス)に感染。観光どころではなくなり、急遽前倒しに台湾帰国。


その後、夫君と父親が重症化し、夫君は体調が戻らぬまま5月に亡くなった。まだ四十代の若さだった。


父親に至っては未だICU(集中治療室)に入院中で、今も息子の死を知らない(正確には知らせていない)


もし、息子の死を知ったら、そのショックは察するに余りある。



ワクチンが開発される前の当時なら死に至るケースを多見したが、治療が確立されている現在においても命を落とすことがあるとは、絶えず型を変化する武漢ウイルスの恐ろしさを改めて思い知らされた感がある。


夫君を亡くしてから二ヶ月経つが、残された奥様は、憔悴しきって何も手がつけられない状態だ。


9月に妻が台湾へ帰省することになっており、その際は友人に会うことになっているが、多くの時間を友人に寄り添い、少しでも彼女の心の安寧が得られればと思う。



人類はまだ武漢ウイルスに勝利していない


終わりの見えない武漢ウイルスとの闘い。そう、この疫病はまだ終わっておらず、今も我々に牙を剥ているのである。


ひとたび油断したら、また爆発的な感染力で人類を襲い、更なる恐怖へ陥れるだろう。


もう、あの頃の自粛生活には戻りたくないが、しかしながら完全収束するまでは手綱を緩めず警戒心を待たねばならない。


合掌

令和の大改修工事がやっとこさ終わった仙台市博物館へ2年半ぶりに訪れる。





今回当博物館へ訪れた最大の目的は、伊達政宗公の甲冑を見るためであった。


政宗公の肖像画


五歳時に天然痘に罹り、右目を失明した政宗公だが、絵には両目が描かれている。その理由は、絵師に両目を描くよう政宗公が指示したものといわれる。



文化人の政宗公は漢詩にも造詣が深く、晩年自身の半生を表したもの。


意訳


少年時代から戦に明け暮れ、平和な世になった時には、すでに白髪が多くなり、これまで生き残ってこられたのは、天の許しによるもので、これに何の不満があるというのだ。


ざっくりと現代語に訳した。政宗公の当時の心情によって解釈が変わってくるが、台湾で身につけた第二母語の北京語がここで役立った。



いよいよ政宗公の甲冑か見えてきた。見えてきた。見えてきた。実に神々しいではないか。



本物が放つ圧倒的オーラ


これまで幾度と当博物館へ訪れたが、その全てがレプリカの展示であった。


この日、ついに本物の政宗公の甲冑を目にする。普段は劣化を防ぐために、人目に触れぬところで厳重保管。


伊達男、伊達者の名に相応しく、無駄な装飾がなく、シンプルに黒一色にまとめた甲冑がまことに美しい。


くどいようだが、本物だ!


重量20Kg。政宗公の身長159cmと小柄ながら、甲冑の重量に耐え得るガッチリ筋肉質の体型だっただろう。



鋭い三日月の立物が特徴の兜もまた美しい。日本刀を振り下ろした時の残像にも見える。


滅多に見ることができない政宗公の本物の甲冑を前に、わたくしは10分以上隅々までガン見していた。





青葉城本丸跡にて


宮城•仙台の観光収入は、政宗公に拠るところが大きい。


もし政宗公がいなかったら、仙台の魅力度は半減していたと言っても決して大袈裟ではないだろう。



没後400年が経ち、今尚も仙台を盛り上げる、オラが町の殿様。独眼竜の鋭い眼光で睨みを効かせ、郷土仙台を見守っている心強い存在。


母校東北高校射撃部元顧問のK先生が、昭和58年卒業の部員の還暦祝いを開いてくれた。


77歳の恩師が教え子の還暦祝いをしてくれるとは、夢にも思わなかったが。


また、教え子の海外留学第一号がわたくしだったようで、台湾留学中、当時先生は何度も国際電話をかけてくれ、わたくしを励ましてくれた。卒業後も何かと気にかけてくれた恩師に感謝。



会場は、同じく東北高校射撃部の後輩で、台湾人のNくんの店。Nくんは幼少期に一家で来日し仙台へ移住した。


わたくしとNくんとでは年齢が20歳差あるが、恩師を通じてNくんが在校生の時から知り合っていた。


母校射撃部に台湾人の後輩がいるとは、当時うれしい驚きであったことを覚えている。


〜台湾縁は素晴らしい〜



普段、Nくんとお母さんの二人で切り盛りしている。







Nくんと歐卡桑(お母さん)の似顔絵。ほんとそっくりだべぇ。



恩師から還暦祝いのプレゼント「相田みつを風Tシャツ」




〜還暦に〜


今年還暦になるとは、まったく自覚していないわたくし。


大人になってから考え方に変化はあったが、気持ちそのものは十八〜二十歳の時から変わっていない。


還暦になるからといって老け込む気は、さらさらない!


むしろ五十路後半から探究心は益々強まっている。


そう、気持ちは二十歳!



恩師を囲んで

卒業から42年が経ち、連絡がつく同期、後輩が集まってくれた。


我々のために、店を貸し切りにしてくれたNくんと歐卡桑(お母さん)にも感謝。



13歳で台湾に出会い、台湾の水を飲み、台湾の米を食べ、曲がりなりにも台湾の言語を身につけ、台湾の人を伴侶にし、故郷仙台においても、こうして台湾と深い縁が続いている。


その下地を作ってくれたのは、母校と恩師のおかげと言っても過言ではない。


あの時、もし台湾留学していなかったら、今とは違う人生を歩み、かみさんとの出逢いも100%なかった。




感謝!多謝!深謝!


中断していた大阪旅の続編。



時は2023年9月。大阪城内に展示されている長大な屏風に釘付けとなった。


あまりにも大きすぎてカメラに収まりきれない。


大阪夏の陣図


そこには、オラが町仙台の殿様、伊達政宗公が描かれているではないか。


政宗公この時47歳。一万の兵を率い、豊臣勢を撃破。


当時の政宗公は、ガチ仙台弁でもって陣頭指揮を執っていなのだろうか。そうであってほしい。



渡辺謙のイメージが強く


絵師には、政宗公をもう少し男前に描いてほしかったな。「伊達者」「伊達男」の名にふさわしく。


大河ドラマ「独眼竜政宗」の影響を受け、政宗公イコール渡辺謙のイメージが強く、わたくしは未だそこから脱しきれない。これってわたくしだけだろうか?


発掘された遺骨から実際の政宗公の身長は159㎝であることがわかっている。小柄だが、当時の男性身長としては平均だ。一方、政宗公を演じた謙さんは180cm超えの大男。見事に政宗公を演じた謙さんは、まさに伊達男だった。



天守閣からの眺望


政宗公に託す


話がやや脱稿したので本題に戻すが、大阪夏の陣で非常に興味深い史実がある。


敗北を喫した豊臣勢の真田幸村は、この時子どもたち5人を片倉小十郎を通じ、敵将政宗公に託す。


徳川陣営にバレたら、えらいことになるが、政宗公は彼らを徹底的に保護。


以後仙台藩庇護の下、真田家は子々孫々家督が受け継がれ、仙台真田家として現在も続いている。


幸村は、敵将ながら政宗公に男気を感じ、信用足る人物と看做し、子どもたちを託したのだろう。この絵を見ながら、ふとそのようなことを思った。


わたくしの勉強不足で、大阪夏の陣屏風に政宗公が描かれているのをここで初めて知ることになった。


大阪城で、まさか政宗公に出会えるとは仙台人として望外の喜びである。


在阪中は好天に恵まれ、気持ちよく旅ができた。




大阪城隣の旧陸軍第四師団司令部庁舎へ。

連れて行ってくれた、大阪の妹しゅしゅさんによると、映画やドラマの撮影に使われることがあるという。重厚な造りだ。




忍者が出迎えてくれた。



岡本太郎さんに感謝!


1970大阪万博のレガシー太陽の塔レプリカもあった。

あれから54年経過したが、今見ても至極斬新だ。当時幼稚園児で初めて見て以来、わたくしを惹きつけて止まない。


来たる2025大阪万博では、果たしてどんなレガシーが残せるだろうか。



旧庁舎内のフードコーナーで、まずは腹ごしらえのたこ焼きを食す。やはり本場もんはうまい!



日本人が少なく、席のほとんどを外国人で埋め尽くされていた。


聞き慣れた台湾訛りの北京語や閩南語も所狭しと響き渡っており、我々一行と同じく皆たこ焼きに舌鼓を打っていた。


味わい深いたこ焼きを食し、至福の時。出汁が利いており、まことにうまいのだ。大阪の食文化は出汁が要であることを改めて感じた次第。


こんなにうまいたこ焼きは、地元仙台で出会したことがない。亡き母親と台湾の義父に食べさせたかった。



さて、大阪旅の続編は今後時折載せていきたい。


この日、東宝シネマズ仙台に着くと、5月10日より上映の「猿の惑星·キングダム」を大々的にPRしていた。



で、今回わたくしの目的は、3回目となるゴジラ−1.0鑑賞。


スティーブン•スピルバーグ監督が、この映画を3回鑑賞しているので、それに並びたかったという思いもあった。なかには、9回目、10回目という強者もいるが。



先月、米国アカデミー賞視覚効果賞を受賞。現在凱旋ロングラン上映中だ。



時計の目覚ましをセット


なんと、朝8時35分の早い時間の上映。この上映時間に間に合うよう、前夜時計の目覚ましをセットして就寝。


映画を観るために時計の目覚ましをセットしたのは生まれてこの方初めのこと。




またしても号泣


初回と2回目は人目をはばからず大号泣。ゆえに今回は泣くまいと決めていた。


しかしながら首都東京が大戦により焦土と化したシーンに、我慢しきれず、またもや涙腺崩壊。


スクリーンいっぱいに映し出されるガレキの山が東日本大震災、元旦に起きた能登半島地震、さらに今回は先日発災した花蓮の地震がクロスオーバー。


そして物語が進むにつれ前回、前々回と同様、今回も再び下述を想起。


大戦中、フィリピン海域を航海中、米軍に撃沈され、海に散った叔父。まだ22歳の若さだった。遺骨は戻らなかったので、叔父の御霊は靖國神社でしか会えない。


女子挺身隊として東京の軍需工場で勤労していた当時十代の母。


大戦中、2度も派兵され、死と隣り合わせの激戦を幾度も経験し、奇跡的に帰還を果たした知人の祖父。


金門島砲撃戦の戦況をありありと話してくれた職業軍人だった台湾の義父。


これらが頭の中を駆け巡り、もう我慢しきれず涙がとめどもなく流れる。流れる。


台詞の数々にグッと来る


戦争で生き残った負い目、自責の念、心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDを患っている主人公敷島浩一に、典子の返した言葉「生き残った人間は、きちんと生きていくべきです!」


海軍工廠•元技術士官の野田健治は、ゴジラとの決戦前日集まった有志たちに「これまで、この国は命を粗末にしてきた。今回の戦いは死ぬための戦いではなく、未来を生きるための戦いです!」


「民間主導の本作戦では、一人の犠牲者も出さないことを誇りにしたい!」



生きろ!


海軍航空隊元整備兵の橘は、大戸島で部下兵らをゴジラに殺され、その原因を作った敷島を強く憎んでいたが、ゴジラとの決戦を控え、局地戦闘機震電を修理し、操縦席には脱出装置をも施し「これで全て終わられるんだ。生きろ!」と、敷島を送り出す。


ゴジラを沈め、帰還した敷島に、典子は「浩さんの戦争は、終わりましたか?」


3回鑑賞して、やっと気づいたことがある。遅ればせながら、やっと気づいた。この映画はゴジラ−1.0という戦争映画だったのだ。




三浦春馬が浮かんでくる


今回もやはり、本来なら、あの局地戦闘機震電の操縦桿を握っていたであろう三浦春馬が再び脳裏に浮かんできた。


それでも、敷島浩一を演じた神木隆之介の鬼気迫る演技は圧巻であった。お見事!


三浦は生前、神木と親交深く、また、神木は三浦を慕っていた。


本作の米国アカデミー賞視覚効果賞受賞を最も喜んでいるのは、三浦だろう。


改めて思う。前回のゴジラ記事と同じことをいうが、三浦春馬にはゴジラ−1.0の如く、生きて抗ってほしかった。合掌。

2019年3月24日、南三陸病院へ訪れた際の記事を加筆し、再アップ。

台湾の義援金により再建した南三陸病院で、ある式典があり、在仙の台湾同鄉會の皆さんと共に参加した。









東日本大震災において津波に流された南三陸病院は、当時患者と病院勤務者合わせて74名の犠牲者を出した。


台湾の義捐金22億円(総工費の40%を占める)により2015年病院が再建された。


在311大地震及海嘯中被沖毀的南三陸醫院,那時病患以及醫護人員共有74人儀牲。


台灣捐助22億日幣(佔總建築費40%) 在2015年讓這所醫院能夠重建。



多謝台灣!













昨年12月台北で開催された「日本東北遊楽日2018」において展示されたレゴ作品「希望の芽」が、南三陸病院へ贈呈されることになり、その式典に立ち会った。


佐藤仁町長

町長自身、311では津波に流されそうになり、必死に庁舎天辺のポールにしがみつき、九死に一生を得た。しかし、奥様が犠牲に⋯⋯


佐藤町長より
「真っ先に支援の手を差し伸べてくれた台湾のおかげで病院が再建することができました。台湾の皆さん、それを誇りにしてください!」









組み合わせたレゴの個数5万!



なんと、台湾からの支援は今も続いており、中学高校生が修学旅行に訪れたり、また、毎年大学生20名がインターンシップで南三陸の企業に職場体験したり、その中には当町に就職した若者もいるという。




南三陸町ゆるキャラ「オクトパスくん」





最後に、佐藤仁町長と3ショット。

かみさんが台湾人であること告げると快く撮影に応じていただいた。

佐藤仁町長は、令和6年現在も南三陸町の首長を務める。



人が住めるよう、高台の整地は進んでいるが、この町に元のように人が戻ってくるのは、まだまだ先になりそうだ。

魚介類がとびきり美味く、それだけでもここへ訪れる価値があり、また来たい、また来たい。

台湾との絆も深く、これからも南三陸町をいろんな形で応援したい。