古賀政男「影を慕いて」に関する現地調査での新発見、その2 | アカデミー主宰のブログ

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松島に一泊した二人は、
2泊目を、青根温泉の佐藤仁右衛門旅館に投宿しました。当時はその佐藤旅館しか青根温泉にはなかったということです。現在の「不忘閣」という旅館です。この温泉は伊達政宗の時代からの温泉で、当時は、様々な建物が廊下で繋がり、素晴らしい佇まいの旅館だったようです。今でのその名残を建物や庭園に伝えています。
その旅館に二人は投宿したのでした。そこで何があったかは、知る由もないのですが、夏の終わりの日、古賀は散歩を偽り、山中に入って行ったのです。青根温泉から山中に入った、現在の歌碑のある辺りで、古賀はナイフで手首を切り、自殺を図ったのでした。
いつまでも帰ってこない古賀が心配になり、幸七は探しに出かけたのです。やっと探し当て、山中で自殺を図って倒れている古賀に必死で呼び掛け、応急処置をして一命を取り留めることができたのでした。
 
その後、幸七は約50年後、死ぬまで古賀政男が自殺を図ったことは、一言も喋らなかったということです。この自殺未遂を起こしたことは、何と古賀の口から話されたことだということでした。古賀が当時を回想して、日経の雑誌に語ったことがきっかけで、これが世に出ることになったということでした。
 
古賀が亡くなる1年ほど前に、幸七は71歳で他界することになるのですが、幸七の葬式には、遥々東京から古賀が黒塗りのベンツで、両腕を抱えられながらやってきたと話していました。古賀が、最後まで幸七のことを、いかに心に掛けていたということが伺えるような気がしました。
古賀はそれから約1年後、昭和53年に亡くなりました。あの青根温泉への投宿した同じ夏の暑い日でした。
昭和の金字塔「影を慕いて」は、こうして生み出されたのでした。古賀の幸七への想い、韓国に就職で旅立つ幸七に愛用の名器を託したこと、そして幸七は、死ぬまで古賀の自殺を明かさなかったことなどでも、二人の生涯を通した強い絆が感じられるのです。
「影をしたいて」には、古賀の幸七に対するそんな思いが、全ての琴線に溢れているような気がしてならないのです。
 
「影を慕いて」の「大沼氏」を訪ねて、蔵の街、村田の「大沼幸七」の現地調査を終えて、道の駅「むらた」で美味しい「そらまめうどん定食」を頂き、遠刈田温泉から青根温泉の「影を慕いて」歌碑に向かいました。
全てが明らかになった上での歌碑は、また違った印象をもって受け止めることができました。石碑に刻まれた「大沼氏」の名前が、やっと明らかになったからです。これほど深い付き合い、絆があったからこそ、永年の石碑に刻まれたことが分かりました。石碑は昭和55年建立とありました。古賀が亡くなって約1年半後のことでした。
いかにこの地域の人々が、古賀のメロウィーに思いを寄せ、青根温泉と古賀政男とのゆかりが深いかということを物語っているような気がしました。
さらに古賀政男の記念館「青根洋館」にも立ち寄り、様々な資料を改めて眺めてみると、今までとはまた違った感慨も生まれてきたのでした。
「影を慕いて」の創作の原点は、やはりこの宮城にあったことを、改めて知ることができたのでした。
 
帰りは時間が押していたので、温泉には入らず、青根街道から286号線に出て、まっしぐらに仙台に戻ってきました。
スタジオに戻り、ヴァイオリンを積み込んで、今度はカルチャーセンターのヴァイオリンのレッスンに出かけていきました。ヴァイオリンの1時間のレッスンも、何かしら今日一日の余韻を感じながらのレッスンでした。88年も前の村田の蔵の街や青根温泉での二人の事実がが、ヴァイオリンの音色のすぐ前にあるような気がしていました。
 
今日も忙しい日程でしたが、全てを終了することが出来てホッとしました。何よりも古賀政男に関する現地調査を実施して、今まで分からなかったことが明らかになりました。
収穫の多い一日になりました。村田の街を、改めて歴史のある深い街並みだと認識することができました。もう少し村田の街並みを、歴史的に研究していく必要があると感じました。今まで分からなかったことが分かるということは、いかに人間を成長させ、一回りも二回りも大きくしてくれるということを知ったような気がしました。
大正の末から昭和の初めにかけて、まっしぐらに生き抜いた古賀政男や大沼幸七の青春群像のように、私も日々一日一日を輝かせながら、周りの人々と生き抜いていきたいと強く思いました。