

今日は朝
6時20分にお手伝いさんがやって来ました。起きて急いで日記を更新して、朝食を作り、一緒に頂いてから、9時過ぎに多賀城にお手伝いさんを送って行きました。朝食はいつもの様に、お好み焼きと味噌汁、胡瓜とカブのサラダでした。日記更新の間に、お手伝いさんは片付けや、掃除や、洗濯物の干し方などを済ませてくれました。
お手伝いさんは10時からの用事が入っているようで、急いで多賀城駅まで送って下ろしました。私は、給油の必要もあったのですが、用事を思い出し、急いで国道い45号線を通りスタジオに戻りました。
今日の課題は、夕方にヴァイオリンのレッスンが入っています。それまでの課題を考えたら、今日しか文芸講座の下見に行く時間は取れないだろうと思い、思い切って富宮のおじさんを誘って、一緒に再度の現地調査に出かけることにしました。
おじさんにはスタジオまで自分の車で来てもらい、スタジオの駐車場に停め、私の車で出かけることにしました。おじさんがやってくる間に家に戻り、車を乗用車に乗り換え、準備をしてスタジオに戻りました。
タイムリーにおじさんが到着し、即出発することができました。おじさんへの電話をしたのが10時25分頃、家に帰って、車を準備して戻ったのが11時5分頃でした。おじさんが到着して出発したのが11時15分頃でしたので、全く時間のロスタイムがありませんでした。
スタジオを出発し、長町インターから南部道路を通り、東北道に抜けました。村田インターまでは一走り、途中、道路工事で渋滞もありましたが、村田インターから、今日の目指す「村田の蔵街」に到着することができました。
今日の現地調査は、9月に実施する文芸講座のレジュメ作成のための「古賀政男の世界」について明らかにすることでした。先日の青根温泉への現地調査での、歌碑の中に記述してあった、「大沼氏」が誰であるかを明らかにすることでした。地域の方は、「大河原出身の方」だと話していたので、古賀政男が投宿した青根温泉の旅館に電話をしていろいろ尋ねた時に、「その方は、村田の方」だと話してくれました。村田の街で聞けばすぐわかると話していました。さらに、先日7月16日の「被災地巡りのバスツアー」に参加した時に、名取の歌声サークルの方も知っていて、その方は、「村田の有名な酒蔵の御曹司」だと話していました。その情報もあったので、今日は、まず村田の有名な酒蔵を訪ねてみることにしました。
村田は、蔵の町で、「宮城の小京都」とも呼ばれている町です。旧街道に沿って沢山の土蔵建築が並んでいました。その中に宮城では有名な酒蔵を見つけることができました。酒蔵メーカーの大きな看板が掲げられていたので、その蔵の前で止まって聞いてみたら、そこが有名な酒造メーカーだったのです。まるで大正時代にタイムスリップしたような、蔵の佇まいで、昔のままの姿が残されていました。
その酒造メーカーで「古賀政男」の件を尋ねてみたら、そこの女番頭のような方が出てきて、教えてくれたのです。「古賀政男」に関する「大沼氏」とは、そこからほど近い大きな蔵の建物の方であること、その向かいにある「金正」(かねしょう)さんで聞いてみれば教えてくれることを話してくれたのです。
村田の蔵街は、震災で大きな被害を受けていました。土蔵建築は地震との相性が悪く、至る所で壁が落ち、修理がされない状態で、取り残されていました。修理が始まらない状態で、足場囲いでネットが張られている土蔵もありました。私の目指している「大沼氏」の建物は、まさにそれで、見事な蔵の佇まいなのですが、地震で壁が落ち、修理のためのネットが張られていました。今はそこには誰も住んでいないようなので、向かいの「金正」という蔵造りで雑貨屋を営んでいるお店で聞くことにしました。
ここも凄い蔵造りの建物で、タイムスリップの雑貨屋を経営していました。小上がりでお話を聞くことができました。また、階段を上がった2階は資料館のようになっており、今では珍しくなった様な昭和の貴重な品物が並んでいました。昭和の小部屋が再現されていました。足踏み式のオルガンが置いてあったので、私が「影を慕いて」を演奏したら、そこの女主人は感激して、一緒にハーモニカを演奏してくれました。「ふるさと」をハーモニカで演奏し、オルガンで伴奏したら、昭和の香りがしました。こんな小さな足踏みオルガンが、これほどの響きになると驚いていました。ちょっと触って演奏しただけなのに、感激されて私の方がびっくりしてしまいました。
そして、何とそこの女主人の方は、「古賀政男」に関する様々なことを知っており、これまでもメディアで語ったこともあるほどの方でした。私はここで「影を慕いて」の創作の経緯を初めて聞くことできたのでした。
古賀政男が「影を慕いて」の作品を創作した、当時の友人だった「大沼氏」とは、有名な酒造メーカーの御曹司ではなく、同じ姓を名乗るのですが、少し離れた所にある同じ姓の6代目大沼正六という方の弟、大沼幸七(こうしち)氏であるということでした。
この辺りの蔵街の大沼氏は、明治、大正、昭和と、紅花の卸問屋として、大きな財をなしたいわば宮城の豪商でした。丸森の斎藤家や河南町前谷地の斎藤家と並ぶ宮城の豪商、豪農の一族でした。
山形の紅花を大量に買い付け、それを仙台周辺の染め物業者に卸す仲介業者で、当時はこの一帯は物凄い繁栄を見せていたといいます。その名残が、今に伝える蔵の街、土蔵建築物なのかも知れません。
大沼幸七氏は、明治37年生まれ、古賀政男と同級生だったといいます。豪商の息子だった大沼幸七は、当時豪商の子弟といて当然の如く東京に遊学し、大正12年明治大学マンドリンクラブで、古賀政男に出会うことになったのです。
マンドリンクラブを創設した古賀政男は、一緒に活動した幸七と4年間本当に豊かな音楽生活に浸りながら、幸せな日々を過ごすことができたのです。当時最高にモダンだったマンドリンやギターの演奏も、めきめき上達を見せ、当時の難曲と言われた曲も演奏できるほどになっていました。
毎日のクラブ活動や演奏活動の中で、古賀や幸七は、貧しい古賀を金銭的にも支えながら、素晴らしい青春の日々を過ごすことができたのでした。古賀は創設クラブの責任者として音楽活動のチーフとして動き、また幸七は、クラブの会計を担当し、車の両輪の如く、お互いを支え合っていたのでした。
幸七が会計担当になったのは、実家が豪商で経済的に裕福であったためと言われています。しばしば幸七は、実家を頼って、クラブのために経済的に補助したとも言われています。村田の幸七の実家、大沼正六の実家は、間口がそれほどないのに、奥はどこまでも続いているという建物でした。店蔵、勝手蔵、中蔵、西蔵、などが続き、幸七が住んでいたと言われる2階建ての離れの建物もありました。
古賀は4年目の夏の「最後の旅行」になる前にも、幸七の離れに遊びに訪れ、泊まったという話を聞きました。その時には、すでに「影を慕いて」の構想は出来ていて、東京に帰ってすぐに「影を慕いて」の楽譜が、幸七の元に送られてきたというのです。幸七が「影を慕いて」をギターで演奏した最初の人だと、「金正」(かねしょう)の女主人は話してくれました。
大学4年目の夏休み、4年間を共に過ごした大学時代の思い出に、古賀と幸七は、一緒に東北の松島への旅行をすることになりました。幸七の就職先が、その時、韓国の大手の銀行に決まっていたかどうかは定かではありませんが、二人は大学時代の思い出に、一緒に活動したマンドリンクラブの思い出に、東北旅行を選んだのでした。韓国は、その当時は日本の領土になっていました。1910年に韓国が併合されたからです。
その数ヶ月後、幸七が韓国に就職で出発する時に、古賀は自分のマンドリンの名器を、「これが自分だと思ってくれ大切にしてくれ」と言って、幸七に手渡したということです。そのマンドリンは、終戦で帰る途中、船の中が火災に遭い、楽譜もろとも全て焼失してしまったということでした。