大学主催の「被災地巡りのバスツアー」に参加 | アカデミー主宰のブログ

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今日は3連休の最終日「海の日」です。私が音楽の講座で関わる尚学院大学の生涯学習センター主催の「被災地巡りのバスツアー」の日です。前にイベントの告知があって、応募をしておきました。朝は早めに起きて、日記を更新してから、出発の準備をしました。朝620分頃、お手伝いさんがやってきました。家事をしてもらっている間に、準備をしました。持参する自転車に空気を入れてもらったり、慣れた気持ちで旅行の準備を慌ただしくして、出発の準備をしました。早めに朝食を済ませ、朝815分頃、出発しました。お手伝いさんは、仕事の後、帰って貰うことにしました。
名取の生涯学習センターには、840分頃到着、すでに参加者が来て待っていました。やはり私と同じで、車をここに置いて、ここから出発する方です。私は一緒にセンター内で休んでから、9時前に集合場所の名取駅に向けて、自転車で出発しました。家から自転車を積み込んできたので、自転車で駅まで行き、駐輪場に停めて行くためです。
駅には既にバスが2台来ていました。参加者は全部で90人程でした。市民や学生などランダムな希望者が、全員が乗り込んで9時半頃に出発しました。
私は被災地には、何回か行っているのですが、このような企画には初めての参加でした。最初は、駅からまっすぐ東に向い、閖上の被災地に行きました。閖上中学校の入口にバスを止めました。閖上の風景は津波で壊滅し、すっかり何もなくなっていましたが、何軒かの建物だけが残る程度でした。閖上では人口約7000人のうち、約1000名が犠牲になったということです。閖上中学の生徒も14名亡くなったということを初めて知りました。学校前には既に慰霊の石碑が建てられていました。近くの「閖上の記憶」というプレハブの中には、様々な展示がされて、被災した当時の写真や資料が展示されていました。
さらに近くの日和山にバスを進め、皆で登りました。周りはすっかり何もなくなり海が見渡せる場所でしたが、瓦礫がうず高く積まれた場所や、海岸付近の嵩上げされる宅地のサンプルが堤防のような形で作られていました。
閖上の再建はどうなるのでしょうか。現地再建か集団移転か、まだ最終決定はまだのようでした。全てのものが津波で流されてしまい、本当に数百年続いた海辺の集落は、完全になくなっていました。
閖上から海岸線沿いに仙台空港の海岸側を通り、相の釜やニの倉海岸を回り、阿武隈川の河口に掛かる橋をわたって、亘理町に入りました。仙台空港の海側の海岸も、うっそうと夏草の生い茂る状態で、作物はまだ何も作られていません。有名なメロンの栽培地域も、まだ何もない状態で、復興はまだまだ先のように感じました。海岸堤防の応急処置の作業が急ピッチで進められ、海岸付近に沢山のテトラポットが並んでいました。
 閖上から岩沼の海岸を通り、亘理の鳥ノ海に行きました。この一体も津波に完全に流され1軒だけある鉄筋の鳥ノ海荘の建物は、現在修復中で、盛んに工事が進められていました。この鳥ノ海荘は温泉でも有名な所ですが、早く再開されるのが期待されます。鳥ノ海に面した復興の仮設店舗が作られていました。「フラミンゴ」という仮設店舗で昼食になりました。会費1000円でのお弁当とお茶をいただき、鳥ノ海に向かっての屋外のテーブルで一緒に参加した歌声サークルのメンバーと食事をしました。仮設の店舗の中は一杯でした。
お弁当は、盛りだくさんで美味しかったですが、ご飯が少し固いような感じがしました。シャコ汁も頂きました。サークルの方がワタリガニやソフトクリームをご馳走してくれました。これも見事な美味しさでした。
今日はうだるような暑さでしたが、海岸近くにいたので、少しは癒された感じがしました。昼食が済んで、再び出発、亘理の大きな仮設住宅を見学しました。約500世帯もある大きな仮設住宅で、住宅の傍には仮説の商店街がありました。ここには沢山の種類のお店が並んでいて買い物ができるようです。郵便局もありました。本当に珍しい大規模な仮設住宅を見学してから、
さらに進んで南に下り、常磐線の坂元駅に行きました。常磐線は亘理でストップしたままです。海沿いの駅でしたが、津波の直撃を受けて全て壊滅しました。近くの住宅地もすっかり流され、今は見る影もなくなっていました。坂元駅はホームが残骸のようになって残るだけでした。この付近は海岸線沿いに集落があり、鉄道も海岸線に沿って走っていた地域です。海近くにあった坂元駅はじめ、すべての建物が流され、今は緑の草茫茫の見通しになって、遠くの山の端まで続いていました。時代を何百年もタイムスリップしたような風景が続いていました。
坂元駅からさらに南に下り、福島県の新地町に入りました。この町も津波の直撃を受けて、多くの家屋が流されました。事前に連絡していたのか、新地町の役場の建物を開放してくれました。近代的な役場の建物が、海辺の町には、不似合いな感じがしました。隣には立派な図書館の建物もありました。最上階まで上がって海辺を見渡しました。町が見渡せる場所でしたが、被災した地域を余すことなく海辺まで見渡すことができました。
中には新築の建物も見られ、現在工事が進められている家も見られました。こ町には、火力発電所があるのです。どこか他の町とは違った風景がありました。
海岸沿いを行くと大きな火力発電所の建物が見えてきました。津波で被災しながらも、いち早く復旧した道路や港湾がありました。新地町の海岸付近を通りながら、相馬の松川浦までバスを進めました。海岸沿いには様々な建造物も見られましたが、全ては壊滅して残骸のようになっていました。
松川浦もまだ復興はしていませんでした。買い物できる場所はなく、被災したままの状態のようでした。南に行けば行くほど、復興のテンポは遅いような気がしました。被災したままの風景が、夏草で覆われた状態で、どこまでも続いていたからです。
松川浦には立ち寄ることができず、そのまま6号線を経由しながら、名取駅まで帰りました。途中、国道沿いのコンビニでトイレ休憩し、集合写真を撮りました。名取駅に帰ったのは17時を過ぎていました。私は自転車でセンターまで戻り、自転車を積んで、車で帰りました。
帰る途中に給油を思い立ち、仙台港に向い給油をしました。今日は物凄い暑さで、びっしょり汗をかいたので、帰りには仙台港近くの多賀城のスパ銭に寄り汗を流しました。スタジオに帰ってメールチェックなどのパソコンの作業や、明日の準備をしてから家に帰りました。
今日は一日、大学主催の「被災地巡りバスツアー」に参加しました。集団で移動しながらの研修も、また勉強になると思いました。これまでも個人的には行ったことがありましたが、14ヶ月を経過した被災地をみて、本当の大震災の被害の甚大さを改めて感じました。できるだけ多くの方々にも被災地を見てほしいと思いました。段々風化していく被災終の風景を、沢山の人々の目に焼き付けてほしいと感じました。久しぶりの研修旅行でしたが、改めて多くを学ぶことができたように思いましました。