春爛漫、石巻日和山からの絶景の惨状(年間365編到達記念) | アカデミー主宰のブログ

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仙台ミュージカルアカデミーの旬な日常情報をお届けします。
HPには更新が面倒で記載できない、日々の出来事情報を織り込みます。ご期待下さい。
ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

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 朝食後、多賀城へお手伝いさんを送って、その足でスタジオに戻りました。スタジオでの仕事を片付けました。スタジオHPの更新作業、メールのチェック、日程の確認などの作業をしました。昨日、パソコンイントラと話し合い、4月もカラオケ大会は中止にしましたので、そのことをHPで更新しました。音大出の方とのコラボステージはやめることにして、メールで連絡もしました。
 「レッスンは遊びに来る」という方のレッスンは、断ることにして連絡しました。段取りの作業をやっていました。スタジオにいると次々と課題が出てきて、時間が経過してしまします。おまけにちょっとテレビを見ていたら、また眠くなって少し休んでしまいました。
 昼近くになって家に戻り、黒猫の製作に入りました。注文が来ていたからです。ミシンの調子が良くないので調整に手間取りましたが、昼遅くに出来上がりました。
 お手伝いさんが帰ってきましたので、やっと昼食を作って食べました。今日は久しぶりの塩焼きそばです。ニンニクをたっぷりきかせて大盛りを頂きました。食べてくれる人がいることが、料理が上手になる秘訣です。作る張り合いがあるからです。
 
 課題が終了した所で、先日行った石巻、お手伝いさんが、日和山からの石巻を見てみたいと言うので、今日は軽トラックで出かけることにしました。先日は、悪臭が酷くて石巻は、市街地を通らず、日和大橋を通って仙台に戻ったので、石巻の被災状況は見ていなかったのです。石巻の被災状況を、日和山から見たいというので、出かけることにしました。
 仙台港の被災したスタンドで給油してから、国道45号線で海岸線を行くことにしました。途中、塩釜では、下水が溢れ出して通行止めがありました。迂回路を通りましたが、まだまだ瓦礫が片付けられていない所もあります。被災地の中を石巻に向かう感じでした。
 松島から、国道を離れ、さらに海岸線の奥松島への道路を通りましたが、その被災状況は悲惨なものでした。
 特に東名海岸は、大津波が外海から内海に向かって、集落が背後から襲われた感じで、すっかり壊滅し、まだ水没している個所が広がっていました。こんなに海の近くに集落があったのかと思うほど、海が目の前に迫っていました。潮干狩りで有名な奥松島の東名浜も、今では遠浅の海岸がどこだったのか、全く分からない程、すっかり水没していたのでした。
 余りにも津波で破壊された悲惨な集落は、まだ全くの手つかずの状態で、何とか道路が確保されているだけの状態でした。
 カメラを持参したのですが、設定の仕方が間違っていたのか、撮影できなかったのが残念でした。東名浜から東松島の野蒜(のびる)海岸を通りました。仙石線の野蒜駅は、新しい駅舎でしたが、線路もろとも完全に壊滅していました。野蒜海岸は、駅からすぐ近くで、夏には海水浴客で賑わう所でした。松林も家々も全て津波の恐ろしさを物語っていました。貞山運河に沿った集落の街並みは、すっかり無くなっていました。大きな寺の屋根だけが運河に浮かんで異様な光景を見せていました。
 東松島の野蒜、鳴瀬、矢本を通って石巻へ、国道45号線に戻って、向かう道路の両側は、どこまでも津波の爪痕が、ただ累積していました。
 石巻へは西側から入って行きましたが、道路が陥没して通行止めがあり、まだ大変な状況でしたが、日和山への尾根伝いの道路を通り、最東端の日和山公園まで行きました。
 車を停めて眺める絶景が眼下に広がっていました。北上川の河口に開けたこの街は、津波によって壊滅した惨状を、余すことなく眼下に映し出していました。ほとんどすっかり津波で流され、コンクリートの建物だけが所々に点在しているようで、石ノ森漫画館のある中洲も、その建物だけが異様に大きく、すっかり流されて、白砂のようになっていました。石巻の全景は、奥深くまで津波が到達したことを物語っていました。
 伊達政宗が最初に城を築こうとしたこの日和山は、石巻を眼下に見下ろす絶景として、桜の名所にもなっていますが、桜は仙台より遅いのか、まだ咲き始めという感じでした。1週間後には満開の桜が、この絶景の公園を埋めるのではないかと思われました。
 夕方近くになり、西の空には夕暮れの太陽が、乳白色の空の中で燃えていました。どこまでも海は穏やかで、あのような惨事があったことなど想像もできない程、静かに果てしなく広がっていました。
 すっかり帳が下りた夕暮れの中を、三陸道から、再度国道45号線を通って仙台まで戻ってくることができました。夕暮れの石巻の市街地は、まるでゴーストタウンのようで、街並みは存在するのに、瓦礫と化した街並みに、人っ子一人いない恐ろしいような街の中でした。街全体が被災して、ここが人が溢れていた大きな石巻なのかと思うほど、不思議な光景でした。
 やっと復旧を始めた西部の振興市街地から、三陸道に乗りましたが、石巻市街は、まだ復旧が全く始まっていないという状況でした。満月の時期、大潮のためか、どこの海でも川でも、水が岸までひたひたに溢れるほどになっていました。
 やはり私は、実際に石巻に足を運んで良かったと思いました。実際の石巻の状況は、テレビで見るものとはまた違っていました。本当に大変な状況が広がっていました。どこの海岸部に行っても、同じような状況ですが、実際に見聞するとまた違う感じがします。実際はもっと凄い状況でした。
 大津波で壊滅した石巻の惨状を見て、今回の大震災は、計り知れないほどの爪痕を残したことが分かりました。東北、宮城の海岸部の惨状を実際に見ると、本当に何とも言えない気持ちになります。余りにも深い傷跡、いったい復興に何年かかるかわからい程、幾らの費用がかかるかもわからない莫大な費用、いったいこれからどうやって復興していけばいいのでしょう。
 千年に一度の大地震と大津波の惨状から立ち直り、人間社会の全ての英知を結集して何とか復興して行きたいものです。石巻の市街地の惨状は、そのことを全ての人々に語りかけているようでした。