忘れていた春分の日、本当に美しい春を! | アカデミー主宰のブログ

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仙台ミュージカルアカデミーの旬な日常情報をお届けします。
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ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

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 震災以降必死で駆け抜けた10日間、三連休の3日目、11日目は、春分の日でした。相部屋さんの日記で、春分の日に気づくような状況でした。普通なら「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、春の訪れが感じられるのに、今年は毎日が闘いで、必死で生活の立て直しに取り組んできました。毎日買い物難民になって食料を確保したり、風呂難民になって銭湯にやっと入れたり(今迄1度だけですが)、毎日が不自由な生活の中での闘いでした。今でも燃料難民は深刻です。春分の日の訪れを気づく余裕がなかったのです。
 それではダメです。気を取り直し、顔を上げて前を向いて歩いていくことにします。亡くなった方々のご冥福を祈りながら、再起への道を歩いていきます。

 朝に日記をまとめていたら、お手伝いさんが帰ってきました。昨日自転車で多賀城に向かい、猫への餌やりと、家の片付けをして、避難している両親へ配給物を渡してから来たとのこと。眠られないので避難所を変えたそうですが、やっぱり朝早くに出発して、1時間ほど時間をかけて自転車で来ました。
 まだ朝食を済ませていなかったので、いつものように一緒に作って食べ、今日の行動に出発しました。
 今日は、昨日ガソリンを5リットルだけゲットしたので、車を動かせます。お手伝いさんを多賀城に送りながら、私も多賀城の兄も家にガソリンをもって行きました。ガソリンを、さらに5リットル購入できたので、窮している兄に分けるためです。
 お手伝いさんは、お父さんへタバコを購入して渡すためにマーケットに並ぶそうです。マーケットの前で下ろして、私は兄の家へ行きました。兄の家には多賀城で被災した友達一家族が避難して生活していました。
 多賀城も家屋の倒壊は免れましたが、津波が押し寄せ、浸水した地域でした。国道沿いには流された車が至る所に放置されていました。
 幸い兄の家は国道の北側で、間一髪のところで助かりました。家で久しぶりのコーヒーをご馳走になり、震災の経験談の会話をしました。5リットルだけだけど、ガソリンは貴重で、車で動けなかった兄は喜んでいました。
 昼食ののり巻きやパックに入れた煮物を頂いてきました。そのままゆっくり、国道を家まで戻りました。戻りながら11日前の状況を思い出していました。ここで地震に遭遇したとか、ありありとあの時のことがよみがえってきて、ゾッとしました。
 
 家に戻って、次の課題へ、車の修理工場が今日から開いていました。キャンピングカーのワイヤー切れが不安だったのでもって行き、みてもらいましたが、異常はないとのこと、安心しました。待っている間に、頂いた海苔巻きで昼食を済ませました。
 今月は乗用車の車検もあるので、その話もして帰ってきました。
 次はガソリンをゲットすることです。再びいつものガソリンスタンドへ、バイクで飛ばしました。今日もやっていて長い車の行列です。携行缶の人はあまり並んでいません。20分程度で、今日は1000円分購入できました。釣り銭のやり取りが面倒なので、今日から限度が1000円になりました。6.25リットルです。でも2度並ばないように念を押されましたので、2度目は今日は諦めました。
家に帰って保管してから次の課題を思い出しました。
 舟を発見したのですが、船尾の箱にはガソリンタンクを保管していたことを思い出しました。先日発見した時は、チェーンで鍵をかけていたのですが、少しだけ開けられて中が見えましたが、盗まれてはいませんでした。今日は、まだあるか分からないけれど、ガソリンタンクを回収することを思いつきました。急いでトラックに乗り換え、スタジオに寄り、工具を揃えて、飛ばしていきました。堤防の下に車を停め作業をしました。
 チェーンの鍵を開けたら、中には燃料タンクが3缶、そっくり残っていました。ほとんどガソリンが満杯に近い形でありました。べっとり泥がついていましたが、堤防の下まで運び泥を落とす作業をしました。
 この作業を始めていたら、自転車に乗った地域のおじさんと出会いました。作業をしながら地震と津波について語り合いました。おじさんは津波に襲われながら、目の前まで押し寄せたけれど、逃げて間一髪で助かったのです。その時のことを話してくれました。地域の方なので、道路を知っていたので助かったと言っていました。あの時避難をする人で道路が渋滞になっていた時、これでは危ないと感じ、引き返して農道を通って避難したそうです。車に水が入ってきて、間一髪で逃れました。その時は必死だったそうです。その時のことを生々しく話してくれました。今年で70歳になる方ですが、まだ現役で働いているそうです。舟のメンテナンス関係の仕事をしているそうで、チリ地震津波も経験し、その経験が、今回役立ったと言っていました。
 泥落としの大変な作業が、会話で楽しくなりましたが、作業を終えてタンクを車に積み込み、帰ってきてから、今度は家の水道でタンクを洗い落とし、収納しました。ガソリンが入っているし、携行タンクを3個もゲットできた感じで、とても嬉しかったです。携行缶は、今はどこでも売っていないし、携行缶にしかガソリンを売ってくれないので、この舟のタンクもとても大切な物になりました。
 舟は時間をかけて回収することにしました。まるで奇跡のような本当の話、舟発見の経過は前に記述しましたが、今回、私はたくさんの奇跡に遭遇したような気がしました。
 
 次は風呂に入りたいので、近くのやっている銭湯に行ってみましたがダメでした。物凄い数の風呂難民が並んでいて、とても無理な状況でしたので、そのまま家に帰りました。
 家に帰ってパソコンをしていたら、レッスン生から連絡があったので、こちらから電話をしました。仕事が終わって時間があったので、レッスンを受けたかったとのこと、歩いて家まで帰る途中に連絡したとのことでした。当時私は、舟の作業をして無理だったのですが、レッスンを受けたいという女性からの連絡があっただけでも嬉しかったです。
 今度は時間に余裕をもって連絡をして下さいと話しました。また音楽を始めたいと話していました。
 夕方も遅くなって、パソコンの作業を続けていたら、お手伝いさんが帰ってきました。やはり避難所は嫌だそうです。どうしても風呂に入りたくなったので一緒に温泉に行くことにしました。暗くなっていましたが、ガソリン5リットルゲットしていたので、強気でした。お手伝いさんを誘って出発しました。
遠刈田温泉はやっていると聞いていましたが、遠すぎます。途中でガソリンが微妙になってきましたので、秋保温泉で探すことにしましたが、秋保温泉はどこもやっていません。暗い街並みがあるだけでした。仕方がないので温泉を諦めて仙台まで戻りましたが、行ってみて諦めが付きました。
 ガソリンは損をしましたが仕方がないと思いました。帰りにまた街中の先に行った銭湯の前を通りましたが、既に銭湯は終わっていました。20時までだったことを思い出しました。
 家に戻って湯を沸かし、顔や体を拭いてから、お手伝いさんと夕食を食べました。やはり二人で食べる夕食は楽しいものです。大した料理でもなかったのに、美味しく感じました。焼酎を飲みながら寛いだ気持ちにもなりました。

 震災ルポは、余りに悲しく、どこまでも悲惨で、どこに行っても、果てしない荒涼とした同じ風景が続いているので、やめることにしました。それは報道の映像でわかることで、文章で書くには、あまりに悲惨だからです。見ていられない光景が、様々ありました。もっと前向きに文章を書かなければならないと思いました。

 今日も春分の日を忘れる位、下を向いて生きていました。あまりに周りの状況が凄まじいので、その中で生活をキープするのがやっとでした。
 もっと楽しい話題を見つけなければなりません。黒猫褌の製作を始めなければなりません。新型黒猫の開発も完成させなければ、様々な課題に挑戦していきましょう。
 音楽活動も始めていきます。演奏を通して、各地の避難所を回ることも考えていますが、まだその時期ではないようです。もう少し落ち着いてきたら、音楽の生の音で、避難所の方々を励ましていきたいとも考えています。
 もっと前向きに生きて行きます。悲しいことばかりに落ち込んではいられません。生き残った私たちが、ふるさとを再生させていかなければなりません。
 全国の方々から寄せられる気持ちに、応えて行かなければなりません。ふるさとを再生させるのは、私たちや次の世代の子供たちにかかっていることなのですから。
 美しい春の訪れを、本当に美しいと感じながら生きていきたいものです。

・画像は震災1か月前の松島の牡蠣祭り