朝はお手伝いさんが、早くから多賀城に片付けに出発した。食事もとらず自転車で出発した。朝食を作ると言ったけれど、遠慮したのか食べないで行くと言う。それも自転車で出発した。ガソリンが無くて、車を動かせないと言ったからかも知れない。本当にガソリンがなかった。キャンピングカーは、ワイヤーが切れて不安で運転できないし、乗用車もガソリンがない。軽トラックもほとんどガソリンが入っていないからだ。家の片付けと整理に使う長靴は、結局高価で買えないと言って買って来なかったので、舟で使う私の長靴だけを貸してやった。朝は食事なしで出発してしまった。何か気に障ることを言ったのかも知れないと思ったが、変に機嫌を取ることはやめようと思った。
久しぶりに一人で朝食を取ってから、今日は、何としてもガソリン求めて出発した。車では余りに並び過ぎて、買うことができないことが分かっていたので、バイクで携行缶を持って、仙台駅東口近くのスタンドに行ってみた。前にガソリンをゲットした所である。周辺の団地近くの大きなスタンドには、物凄い行列ができていることを経験的に想像することができたので、むしろ中心部のスタンドに狙いをつけて出て行った。案の定、車は物凄く並んでいたが、携行缶をもった人は、それほど多くは並んでいなかった。
しかし、スタンドはまだ開いていない。人々は開店を予想して並んでいた。携行缶の先頭の人は、7時に来たと言っていた。私は10時に並んだが何となく買えそうな気がした。いくら待っても、開店するも込みがあるかどうか、いろいろ情報を集めながら、並んだ人たちと話をしながら、時間を紛らわせていた。
やっとのことで12時過ぎに大きなタンクローリー車が来た。タンクローリーが来れば、必ず開店すると人は言っていた。帰る人はほとんどいなかった。並んで良かったと思った。
大体2時間半並んで、5リットルをゲットすることができた。携行缶の人の限度が、5リットルと決められていた。車では25リットルまで。しかし、並ぶ時間が違うので、それでも十分だと思った。急いで家に帰り、軽トラックにガソリンを7割位入れて、残りはバイクに入れた。今再び行けば、また買えるかもしれないと思い、携行缶を空にしてから、今度は灯油のポリタンクと携行缶をバイクにつけて、再び買いに行った。ポリタンクは、ほとんど数人程度の並びで、1缶18リットルを買うことができたので、今度は、ガソリンの列に並んで、もう5リットルを購入した。灯油に並んでいる間は、見知らぬ人に依頼して並んでもらい、灯油を購入してから再びそこに並んだ。さほど時間がかからず、灯油とガソリン5リットルを再び購入することができた。ホッとした感じがした。家に戻って保管したら、何となく欠乏症から脱却できたような気がした。
後で買った5リットルは、兄の嫁に連絡して、まだ購入できていないなら、そのまま分けることにして保管することにした。
家に帰ってやっと昼食をとることができた。お手伝いさんがいないけれど、昼食を作って食べ、午後からの活動の準備をした。
午後からは、どうしても被災地、若林区の荒浜を見たいと思っていた。時間があれば、名取の閖上まで足を伸ばしてみたい。報道できいていた悲惨な状況が、本当にどうなっているのか自分の目で確かめたいと思った。
昼食の後、14時半を過ぎてから、バイクで出発した。広い街道には警備の関門があるので、スタンドで人に聞いたように、田んぼの農面道路を進んで行った。高速道路をくぐり抜けると、そこには広大な被災地の田んぼがどこまでも広がっていた。
荒浜が近づくにつれて、物凄い状況になっていた。荒浜ばかりではない、その背後地の振興住宅地も、閖上に続く県道沿いの全ての建物が、すっかり流されていた。
荒浜の集落の中も、小学校の建物を残すのみで、ほとんどの家屋が、土台からすっかりさらわれて、跡形もなくなっていた。まさに壊滅状態であった。
昨日見た岡田の状況とは違って、さらに酷い状況であった。
江戸時代や明治時代の浜に戻ったような、荒涼とした風景がそこにはあった。建物と言う建物は跡方もなく無くなって、海まで続いていた。馴染みのある懐かしい建物、海水浴の思い出のある街並みは、完全に消失していた。まるで戦争で爆撃されたかのように、集落全体がなくなっていた。
松林もすっかりなぎ倒されて、海がすぐ近くに見えた。海のそばにあった思い出の漁協の建物も、堅固な造りだったのに、根こそぎなくなって、土台だけを潮風に晒していた。
何と言うこの惨状、何百人もの人が流された模様、小学校の低学年児童は、下校後の地震だったので、果たして何人が助かったのであろうか。小学校の鉄筋校舎に逃げた人だけが助かったという。津波はすぐに来たので、逃げる暇がなかったという。本当に残酷な世界がそこに広がっていた。
貞山堀にかかるコンクリートの「ふかぬま橋」だけが、原型をとどめていた。そこを渡って海まで歩いてみたが、全て夢のような感じがした。
本当にこれが現実なのかとも思われた。時間を戻すことができたらとも思った。
現実の世界では、全ては荒涼として、何もなくなった瓦礫だけがどこまでも続いていた。
荒浜から閖上を目指そうと思ったが、昨日の岡田方面に行ってみたいと思って、北に向かった。どこを見ても瓦礫の残骸が広がっていた。田んぼの中に転がる車、押し寄せた瓦礫がどこまでも広がっている。今日は、あれから10日目なので、道路は車が通れるようにはなっていた。岡田の集落も悲惨なものであったが、先日(3月6日)の河川敷清掃で、先頭に立ってがんばったおじさんの家を訪ねてみた。
立派な家は、大分破壊されていたが、何人もの人が、片付け作業をしていた。おじさんは当時家にいたが、2階に逃げて助かったという。家は1階が、流されてきた瓦礫によってえぐり取られていた。
おじさんは、地域の先頭に立って復興の歩みを始めると言いていた。凄まじい魂であると思った。家の様々な農器具も、泥の中から掘り起こして、探し出していた。洗い終わった農機具や自転車など、いろいろなものが庭に並べられていた。おじさんと話をしながら、当時の恐ろしい大津波の状況を、この有様から想像することができた。
おじさんの家を後にしてから、蒲生公園の裏側の、私たちが良く行っていたビーチの入り口方面に行ってみたが、入口付近にあった民家と建設事務所は全て流され、跡形もなくなっていた。土台だけがそこに残って、かつての面影は、全く無くなっていた。ここの方には、舟の桟橋を作ってもらった。お世話になったおじさんや従業員はどうなったのであろうか。
ビーチへの入り口にかかる橋が落ちていた。何とか水門を通り踏み入れてみたが、大きな松の大木が立ちはだかり、入っていくことができなかった。まだ水が引かず、沼の状態になっていて、懐かしい奥の駐車場までも行くことができなかった。仕方なく引き返して、バイクに乗った。
岡田から閖上まで、県道を南に下ったが、その道路の両側は、井土浜(いどはま)の壊滅された集落の瓦礫がどこまでも続いていた。
名取川にかかる閖上大橋まできた。河口左岸には懐かしい仙台市藤塚(ふじつか)の集落があったが、ここも全てが流され、荒涼としたがれ場と化していた。思い出に残る家並み、屋敷など全てが消えて、海が近くに感じられた。
閖上大橋を渡って、閖上の街の中に入って行った。ここは伊達藩の居鯖で、その時代からの漁師街であり、名取川右岸河口に開けた、結構大きな街並みが広がっていたが、ここも壊滅状態であった。海に近づくにつれて、その惨状は益々酷くなっていった。全ての家が波に飲み込まれて、何も残っていなかった。街中に小高い祠があって、上ってみたが、その上の祠も完全に倒壊して、瓦礫が積み上げられていた。祠にある大きな松の木1本だけが残って、海風に晒していた。周りは360度、荒浜と同じで何もなかった。いや全てが津波によって流され、土台だけが残り、かつてここに街があったことを物語る荒涼とした風景だけが続いていた。名取川の河口まで見渡せるほど、本当に何もかも無くなっていた。
かつて、毎週のように訪れてアコーディオンライブをやっていた、閖上朝市の公園も、公衆トイレだけを残していた。海側にあった松の木も全て無くなり、すっかり変わり果てた姿になっていた。市場の建物もなくなって、ここがかつての市場であったのかとさえ不思議に思うほどであった。
12月以降は寒い季節なので休むことにしたが、それまでの去年の12月まで、1年間以上休むことなく毎週通い続けた閖上の朝市公園は、その面影さえ無くしていたのである。
全ては無くなっていた。荒浜も閖上もみな同じであった。
岩手のリアス式海岸の浜から福島県や茨城県の砂浜海岸に点在する全ての浜が、恐らく同じ状況だと、その時はっきりとわかった。
テレビでは、岩手の陸前高田や宮城の南三陸の浜が壊滅状況だと報じていたが、いやそうではない。大小にかかわらず、全ての町や村が同じ状況なのだと思った。
全ては壊滅状況なのだと思った。それも海岸付近ばかりではない、海岸から離れた仙台平野の奥までも、その被害は広がっていた。海岸から数キロは、全てこのような状況である。
千年に一度の大災害だと言うが、本当にそうかも知れないと思った。今迄の長い年月で積み上げられてきた全ての物が、一瞬にして破壊され、流されてしまったのである。この風景も、恐らく千年に一度のものであるかも知れない。
何と言うこの惨状、大震災は、人間がこれまで築き上げてきた全ての物を飲み込み、破壊し、流してしまった。おびただしい数の人も流されて遺体で見つかった。いやまだ見つかっていない物凄い人の数、恐ろしくなるほどの数の多くの人命を奪ってしまった。
果たして人間は、この現実から立ち直ることができるのか、立ち直るためには果たして何年が必要なのか、私は、壊滅した惨状を目の当たりにしながら、そのことをいつまでも考え続けていた。
(震災ルポは今回で終了です、長い文章を読んでいただきありがとうございました。震災で、私が体験したこと、見たことを記録に留めたい、人々に伝えたい思いで、必死で書き続けてきました。震災の現実は、その惨状は、どこも同じでした。
今回の震災で、被害に遭われた全ての方々に心からのお見舞いを申し上げます。また、亡くなられた全ての方々に、心からのご冥福をお祈りいたします。生き残った私たちががんばっていきます。合掌!)