大震災の現実 その6 原発放射能漏れ、舟発見、南蒲生の惨状-2 | アカデミー主宰のブログ

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 昼食の後、それぞれの課題に取り組んだ。お手伝いさんは、自分の家の片付けに使う長靴を買いに自転車で行動、私は、ヴァイオリンのレッスン予定が入っていたのでスタジオで待機、別々に行動した。私はスタジオでレッスンを待ったが、やはり今日はレッスン生は来なかった。連絡が付かなかったが、やはり大変なのかも知れないと思った。14時と15時のレッスン生が来なかったので、スタジオで仕事をした。
 今、テレビで流れているコマーシャルについて調べてみた。まずは音楽の方、「魔法のことば」という歌が流れている。面白い歌なので、Utubeを何度も聴いて楽譜を作成した。震災の状況の中で、人々へ言葉を交わし合うことで繋がっていくことを呼びかけているように思われた。これから様々な場面で使っていこうと思った。楽譜は結構採譜が難しかったが、何とか終了できた。
 もう一つは宮沢章二の「行為の意味」という詩である。「心は見えないけれど、心遣いは誰にも見える」という例のコマーシャルである。宮沢章二の詩が、コマーシャルで耳にタコが出来るほど流されている。これも今の状況の中で、国民への道徳心の啓発のように私には聞こえるが、どうなのであろうか。
確かに内容は理解できるが、こうまで流されると、嫌みに聞こえてしまうのは私だけであろうか。確かに素晴らしい詩の内容だと思う。でもこれだけ頻繁に流すコマーシャルだとも思えない。企業のコマーシャルを自粛しているので仕方がないのかも知れないが、同じコマーシャルが余りに多くて辟易している。

 二つの課題が終わった所で、レッスン生が来なかったので、15時半に、家に戻って、今度はバイクで舟を探しに行くことにした。大地震から1週間を経過して、舟をやはり心のどこかで心配していた。
 幸い天気が良かったが、午後からは風が吹いて、寒くなってきた。防寒コートを着て、河川敷に向かっていた。河川敷までは、20分程度であろうか、津波で襲われた岡田の農面道路を通りながら、河川敷に向かっていた。途中岡田の集落方面には入らず、バイクで細い道を、七北田川の堤防に上がるようにいった。舟の係留していた場所から数キロ上流の田んぼの中を通って堤防に上がった。
 何の予想もなく、計画もなく、この辺りから上がれば分かるかもしれないというカンでここまできた。
堤防に上がった途端に、愕然とした。河川敷一面の瓦礫の山の中に、堤防を上がったその目の前の河川敷に、私の舟があるではないか。まるで私を待っていたかのように、舟が裏返しになっているわけでもなく、ちゃんと船首を斜め前にしながら、まるで鎮座ましますように、河川敷の倒れた葦の山の上に横たわっていたのである。
 場所にねらいを定めて、上がった堤防でもなかったのに、初めて探しに上がった堤防のその目の前に、舟を見つけることができたのである。何か自分の肉親を見つけたような、不思議な感動がそこにはあった。すぐに堤防を下りて、舟を良く見たが、ほとんど壊れてはいなかった。もちろん舟の中のものは全て流れていた。船尾のボックスはチェーンで鍵をかけて、燃料タンクなどを入れていたが、少し蓋が開いていたが、盗まれることもなかった。舟が私を待っていたような気がする。そんな不思議な感動があった。
そこは、舟の係留地から大体2キロ程上流辺りで、産業道路や高速道路の高架橋が間近の所であった。
嬉しい思いで、必ず舟を回収することを誓って、そこから堤防をバイク下って行った。七北田川の右岸、川の南側の南蒲生の舟の係留地までやってきたが、そこには見慣れた風景は無かった。係留されていた全ての舟も、桟橋もきれいさっぱり流されて、高い葦もなぎ倒されてきれいな河川敷になっていた。昨年来、停めてあった車もすでに無かった。車で生活していた人は、いったいどうしたのであるか。
あの日、確かに確認した車も、整然と係留された幾つかの桟橋と舟も、跡かたもなく消えていた。これが自然災害の姿なのかと思った。
 係留地から南蒲生の集落へ、そして通い馴れた蒲生の公園の方向にバイクを走らせたが、そこには驚くべき風景が待ち受けていた。
 先日、岡田の集落で見たよりも、もっと悲惨な光景、家という家は、完全に破壊され津波の物凄さを物語っていた。田んぼの中には、至る所に車や松の木の残骸が転がり、かつて見事な風格をした家々は、無残な光景を映し出していた。
 蒲生公園まで足を伸ばすことができた。震災1週間で道路もバイクなら通れるようになっていた。蒲生公園は、全ての物がなくなっていた。公園への案内板、普通国道沿いに掲示してある青地に白文字の方向掲示板も10m以上の高さで、ぐんにゃり折れていた。
 大津波の高さが、いかに高かったか。公園内の入場ゲートも、公園内のレストハウスもトイレも全て流され、自然のままの平地に変わっていた。ここがあの蒲生公園なのであろうか。唯一海岸に垂直に立っていた野球のネット1枚だけが、波に流されることなく建っていた。
 公園入り口にあった鉄工場は、看板のみを残し、きれいな砂地になっていた。
 貞山堀を渡る橋は、手すりが流され、橋の両脇がえぐられていたが、おそるおそるかろうじて渡ることができた。堀の海岸側にあった仙台市の南蒲生処理場の建物は、まるで爆撃を受けた跡のように、ずたずたに壊されていた。
 出会った男性の方と松林を越えて浜まで歩いた。何と静かな浜であろうか。この海が大津波によって10数m高さで、全ての物を押し流したとは、到底想像さえ出来ない程の静かな海、海岸には、ちょろちょろ程度の波が打ち寄せていた。
 松林は完全になぎ倒されていた。高い松の木は確認しただけで3本だけが残っていた。全ての高い松の木が根こそぎ倒され、津波によって運ばれ、家々を直撃していったのである。
 伊達政宗の時代から、何百年も続いた有名な蒲生の松並木は、完全に消滅していた。所々にしか松並木を確認できない。海岸から松並木を通して、背後地を見通せるほどかすかすになっていた。
 出会った男性と、処理場の建物の屋上に上がってみた。屋上には金属の板もはがれ、松の木が転がっていた。13mの高さの屋上にも、津波がきたのだ。屋上からの南蒲生の夕焼けは、どこまでも静かで見渡すことができた。
 南の荒浜や北の仙台港まで見渡すことができる。静かで穏やかな風景がそこにあった。1週間前に、ここを恐ろしい大津波が襲ったとは到底信じられないような、静かな夕暮れの風景であった。
 南蒲生や岡田の惨状は、報道ではほとんど報じられていない。若林区の荒浜や南の閖上浜が余りに酷く、集落全体が流されて大きく報道されたが、ここ南蒲生や岡田も全てが流されていた。七北田川左岸、北側の蒲生集落も完全に流されて跡形もなくなっているという。
 岩手から宮城、福島へと続く、美しいリアスや砂浜の海岸線の集落は、全て大津波の直撃を受けて、流されてしまったという恐ろしい現実を確認することができる。これが現実なのか。
 本当にこの惨状は、言葉では言い尽くすことができないほどの有様であった。
 夕暮れの田園の中を、南蒲生から家に帰る途中も、産業道路に出るまで数キロの間、道路の両側には、津波に押し流されて辿り着いた瓦礫の残骸がうずたかく積まれて、道路のガードレールまで押し寄せていた。
 ここが全ての残骸の流れついた終着地点だと私には思われた。そこは海岸からは程遠い地点、恐ろしいほど平野の内部に入り込んだ地点、仙台平野の大穀倉地帯であった。