そこにも何か理由があるような気がした。
リハーサルは、16時45分から30分の時間帯で実施された。観劇チケットを見せて、リハーサルチケットを入手、その時間になると、リハーサル観劇者だけに開門された。みんな前の方の席に集中していた。すでにリハーサルは始まっていた。
リハーサルは、第一部の「マネー・マネー」の部分、ホテルを経営しているシングルマザーのドナが、島の男や従業員たちの前で「金持ちになってやる」と歌い踊る場面であった。みんな真剣に歌い、動き、演技をしていた。一糸乱れぬ動きの中で、見事なまでの揃った動きや演技を見せてくれた。
素晴らしいと思った。しかし劇団四季の、本質というか、もっと凄いと思ったのは、「創造」の本質へ迫る「姿勢」の素晴らしさだった。
劇団四季の団員は、歌がずば抜けているとか、ダンスが抜群だとか、様々な力量はあるが、ごく普通の若者である。私が凄いと思ったのは、学ぶ「姿勢」が凄いということである。「マネー・マネー」の部分の一糸乱れに動きを、途中で止めて、指導する舞台監督が、いくつかの指示を出した。決して鋭い口調ではなく、本当に淡々とした優しい口調であった。一糸乱れぬまとまった群舞を、「もっと瞬間の動きで、もっと寄って一つにまとまって欲しい」という注文を出すと、団員は、指示が終わった瞬間、ほとんどの人は、はっきりとした口調で「ハイ」と返事をした。
「ここはこのようにしてください」「ハイ」と言う風に、場面、場面の指示ごとに、団員は、即「ハイ」と応えて動いていく。それは驚くほど凄い瞬間だった。
私たちから見れば、凄い動きで、完璧と思うけれど、そこに指示をだして、「ハイ」と応え、何度も同じ場面を繰り返していた。いわゆる「アタリ」の練習であった。
私は、この場面を見ながら、劇団四季のステージの素晴らしさを支えるものは一体何であろうかと思っていた。
団員は普通のどこにでもいる若者、ダンスや歌は、訓練されているけれど、本当に普通の人である。それがステージに立ち、指示を受けた時の、対応の仕方が凄いと思った。プロもアマチュアも関係なく、「創造」に対する、またはステージに対する「実践的当為性」なのではないかと思った。
そこが、アマチュアとの決定的な違いなのではないかと思った。創造問題への関わり方の深さが、違うのかなとも思った。
「そこまでできれば御の字」ということはない。どこまでも「創造」を深めて行く姿勢をその姿に感じていた。
私は、自分の指導を振り返りながら「ハッ」とさせられていた。普通の人々を対象に「うたごえ」を指導しながら、良さだけを褒めながら、歌う気持ちを引き出してきた自分、もっと細かい指示ができなかったか、それよりも、一人ひとりの中に、劇団四季のような「実践的当為性」を高める指導を展開してきたか、自分の指導力のなさを反省していた。
「実践的当為性」とは、一人ひとりの学ぶ姿勢、恥ずかしがらず、自分の弱さを超えて「創造」に立ち向かう謙虚な姿勢とでもいうのであろうか。
決して単なる「やる気」とか「気合い」とかではない、もっと深い学びの「姿勢」、そう解釈すると、果たして私はアマチュアの人たちに、その「姿勢」を指導してきたか、自問してしまった。
アマチュアは、自分が気持ち良く引き出されることで満足し、決して自分から独自で「創造」に挑むことはしない、自分の中でハードルが高いことは、避けて、他になすりつけて、自分が矢面に立とうとはしない。
その辺りが、同じ人間なのに、プロ集団との決定的な違いなのかなと思った。「創造」の前には、プロもアマもないはずなのに、アマだけを相手に指導するうちに、その「実践的当為性」の指導を怠ってしまっていた自分を発見していたのであった。
だからアマチュアは、どこまでいってもアマチュアで、「創造」のできなかった事には言い分けするし、質的に高い次元に到達しなくても、今あるその次元の喜びだけで「良し」としてしまうのかも知れないと思った。
恐ろしいことである。長年の指導を重ねてきても、アマチュアの指導は、どこまでもアマチュアなのか、本当は「創造」には関係ないはずなのに、自分でその「当為性」を高めることを、避けてしまっていた自分を見出していた。
サークルの指導は、「そんなの関係ないよ、要求を満たすためだけにきているのだから」と言う人もきっといるでしょう。でも、そういう次元の「創造」は、それだけのものであることも、自明なのだと分かってほしいと思った。
一般の普通の人を、ステージに上げるまでの指導をするのに、プロの指導を押しつける必要はないし、そこまで要求する必要もないかも知れない。でも「創造」は、ステージは、どこまで踏み込んだ「創造」かで、答えを出してくれるのだ。「創造」と言う次元では、アマもプロも存在しない。
私は、劇団四季の「創造」の秘密を、リハーサルステージを見て知ったような気がした。一人ひとりは、一般の人と変わりない人なのに、ひとたび劇団四季のステージに立つと、「創造」への限りない「実践的当為性」を武器に、あの感動的なステージを創り上げることが出来るのだと、その誰も知ることができない「創造」の秘密を知ってしまったような気がしていた。
私の指導は、その「実践的当為性」を高める指導が欠落していた。アマチュアの名のもとに、どこまでも会員の次元だけで、指導を展開していたような気がする。私は、指導力がまだまだだと思った。
私は、本当の「創造」の風上にも置けない「指導」の中で、アマチュア指導の「ぬるま湯」につかっていたのかも知れない。そう強く感じた瞬間であった。
その後に観た劇団四季の「マンマ・ミーア」のステージは、その「創造」が、全ての場面で散りばめられ、まさに見事なステージを創造していた。
最後のカーテンコールの熱狂的な拍手の嵐が、その創造の凄さと見事さを物語っていたような気がした。劇団四季の「実践的当為性」に深く学ばされる思いがした。
創造問題ばかりでなく、あらゆる社会的な仕事に関しても、この「実践的当為性」を高めることなしに、本当の仕事を成し遂げることができないことを改めて思い知らされたような気がする。本当に素晴らしい劇団四季の「実践的当為性」を、このステージを通して学ぶことが出来たように思われる。
・「当為」・・・哲学用語、(ドイツ)「あること」(存在)および「あらざるをえないこと」(自然必然性)に対して、人間の理想として「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する。当為にはある目的の手段として要求されるものと、無条件的なものとがあり、カントは道徳法則は、後者であると考えた。新カント派学派は真・善・美等の規範的価値を超越的当為とした。
・私の論においては「目的の手段として要求される」全ての人間の自発的実践と位置付けている。以前から私は、この言葉を、人間を見極める試金石として、「実践的当為性」と実践性を付け加え、用いて来た経緯があるので、今回この言葉を使わせていただいた。
昨日は、久しぶりに、スタジオの雑務を整理してから、富谷のおじさんに遊びに行って来た。撮影した紅葉の絶景「鳴子峡」CDをテレビに映し出しながら、楽しい会話でドライブを振り返ることができた。持っていたおにぎりや果物に、味噌汁や漬物などを出してくれて楽しい昼食を取ることができた。人間には波長があり、接していて心地よく、波長が合う人がいるものである。波長が合う人と接すると、それが癒しになるのかも知れない。久しぶりの癒しの時間は私に様々な思いを与えてくれた。
午後はスタジオに戻ったが、疲れてしまって休んでしまった。明日の段取りだけをして家に帰り、前から課題になっていた「創造問題」での日記を書いた。久しぶりの楽しい一日であった。