今では雄勝には、他のルートも整備されたが、昔は物凄い峠越えがあったので、女川からのルートが使われていた。美しいリアスの海岸線が堪能できるところであるが、今回はここまでにした。さらに南には牡鹿半島が続き、半島観光への基地となっている町である。
また、海には江ノ島や金華山など有名な観光スポットがあり、航路で結ばれている。それぞれの航路の出発の港になっている。女川は、南三陸のさらに奥への観光の中継基地なのである。
そんな豊かな三陸の町であるが、今回はここまでとして、次の目的地に向かった。
来た道を石巻まで戻って新興開発地区を通りながら国道108号線で、宮城県北部の大崎平野に向かった。先日、石巻線に乗ったが、それに沿った国道108号線である。
先日、陸中海岸の旅で、石巻方面へ乗り換えた前谷地方面へと向かう。あの時駅で観た「斎藤家」を訪ねるためである。
津軽旅行で「津島家」の斜陽館を見て来た私は、東北3代地主の一つ「斎藤家」の屋敷を見てみたいと思っていた。宮城の「斎藤家」は、昔、前谷地あたりの四方千里の土地の所有者であったことを聞いたことがあった。同じ県に住んでいながら、一度も訪ねたことがなかったからだ。
前谷地駅の掲示板で調べて、地域の人に尋ねながら行ってみた。駅からさほど遠くない小高い山の中に入った所に周りを塀で囲まれた「斎藤家」があった。今は縄文土器の資料館として、素晴らしい庭園も見学できるところとして整備されている。最初は、縄文資料館と結び付かなかったのだが、近くの山で縄文土器が見つかったことから、ここが資料館として作られたということである。昔のままの状況であるが、庭園は、大体整備され、見事な和風庭園を見せていた。家屋は外見からは茅葺の見事な造りにはなってはいるが、中は未整備なのか公開はされていない。さらにいくつかあった土蔵は、地震の被害に遭い、朽ち果てた姿も見られ、シートが被せられた所もあった。中に1か所の土蔵だけが資料館として当時の資料を展示していたが、これらは代々の「斎藤家」が、いかに大地主であったかを示すものであった。
「斎藤家」は、伊達政宗に滅ぼされた葛西氏の家来、斎藤壱岐に由来すると言われる。葛西氏滅亡後、帰農し7代目の弟善九郎が前谷地に移り住み「斎藤家」初代となった。
酒造業から大肝入りになり、さらに永代大肝入りとなり、その後、飢饉の際の救済事業の功績により郷土格及び4貫175文の知行を与えられたという。その後益々発展し仙台藩領内屈指の富豪となり、さらに明治期には、酒造業をやめ莫大な資金で会社を設立し、社長となり衆議院議員にもなった。私たちが現在知る斎藤報恩館を設立し文化発展にも尽くした。この「斎藤氏」の豪邸「斎藤屋敷」が何とここだったのです。
前谷駅から遠くない山の一角に、あまり広くない木立に囲まれた中にひっそりとたたずむ「斎藤家」からは、昔の繁栄ぶりがなかなか想像できなかったが、この辺り一帯四方千里が斎藤家の土地だったことから、その富豪ぶりがうかがえた。
屋敷も庭もどちらかと言えば、質素な感じで、京都の庭園を思わせる感じがした。今は血縁が絶えてしまったが、「斎藤家」の所有は、最後の当主の妻が健在で仙台に住んでいて、妻の名義になっているという。
今は大学関係の人たちが入り、資料の整理をしているようであった。
国指定名勝の美しい庭園を見せる資料館として、整備が進めているようであったが、私は斜陽館のように建物を内部も修復、整備して、当時の資料を展示し、当時の富豪の様子を明らかにしてほしいと思った。これだけでは「斎藤氏」の東北3大地主の富豪の内容が希薄ではないかと思っていた。
「斎藤家」を後にした私は、「斎藤家」の山に連なる旭山を見てみたいと思った。北側の「斎藤家」のある方角からの入れるようであったが、私は国道に出て大きく南側に回り込み、正面の旭山の入り口から入ることにした。
この旭山も、私は名前には聞いていたが、初めてである。県立公園の旭山は、途中まで車で上がれるが、それ以降は徒歩である。約500mの急な坂道を必死で登ると広々とした頂上が広がっていた。
ここはこの一帯の最も高い眺望がある。それこそ四方千里が見渡せる。360度の大パノラマであるが、今日は霞にかかってあまり遠くは見えなかった。石巻方面から広大な四方千里の田園地帯まで、遥か彼方まで広がっていた。
必死になって急な坂道を上ってよかったと思った。帰るときには足も痛くなく、登った達成感がそこにあった。
初めて来た県立公園旭山、今度は桜の季節に来たいと思った。四方千里の大土地所有者、「斎藤家」のかつての土地が、この眺望の全てなのではないかと、大富豪の富の莫大さに、驚くとともに圧倒される思いがした。
旭山を下りた私は、仙北の大平野の中を西へ西へと向かっていた。広大なる緑の田園を通り、鹿島台から松島へ抜けていた。どこまでも夏の日差しが追いかけてきたが、喉がカラカラに乾きながらも心はどこか満たされていた。