潮騒とリアスの浜・・陸中海岸完全制覇の旅 | アカデミー主宰のブログ

アカデミー主宰のブログ

仙台ミュージカルアカデミーの旬な日常情報をお届けします。
HPには更新が面倒で記載できない、日々の出来事情報を織り込みます。ご期待下さい。
ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

イメージ 1

イメージ 2

 牡蠣棚の 連なり遠く かもめ飛ぶ
            萌える緑の リアスの浜に

 津軽から戻る途中、五能線と奥羽本線の交わる川部駅で、弘前から青森への電車を待つホームで知り合ったおじさんと一緒に行動することになり、青森までやってきた二人は、タイムリーな乗り継ぎの特急「つがる」に乗って八戸まで向かっていた。
 青森で宿泊してもいいのだが、明日一日しかない行動を考えれば、八戸まで行った方がいいと思ったからである。特急「つがる」は、青森を出て1時間ほどで八戸に着いた。小雨が降っていたが、駅前のビジネスホテルに宿をとることができた。おじさんも私もそれぞれシングルをとり、明日の朝食を一緒に食べることを約束して部屋に入った。
 今の時代のビジネスホテルは、安いしとてもきれいで申し分ないものであった。朝食付きというのもいいが、無料テレビはもちろんのこと、夜のコーヒー無料サービスや無料新聞、無料パソコン使用、その他サービスが充実している。何も遠くの旅館でなくても、夕食のことさえクリアできれば、ビジネスホテルが最高であるということが分かった。
 今の時代の旅行スタイルが、以前とはかなり変わってきているような気がした。宿の予約も、当日とるのが普通で、旅行先の都合に応じて行った場所で宿をとることが当たり前になっているような気がした。
 夜の行動は別々であったが、朝は6時半丁度に一緒に1階のホールで朝食をとることができた。
 八戸からどう進むかの話し合いで、おじさんは陸中海岸に行ってみたいという。私は新幹線で、千葉方面でも、東京方面でも一気に下って遊んで来たいという気分もあったが、一緒に旅するのも楽しいかと、おじさんと行動を共にすることにした。
 朝食の後、すぐ八戸駅に入ると、久慈行の普通列車(7時18分発)があったので、すぐに乗りこんだ。通学列車で多くの高校生が乗っていたが、段々と下車し、久慈駅へ9時過ぎの到着の頃には、車内には乗客は少なくなっていた。
 ここまでがJR線で、久慈駅からは、第三セクターの「三陸鉄道」に乗り換えた。ここから盛駅(さかり)まで、陸中海岸国立公園を三陸鉄道が走っている。2両編成のワンマン電車で南下が始まった。生憎、濃霧でせっかくの雄大な車窓の景色を見ることができなかったが、何と車内にはボランティアのガイドさんがいて説明してくれた。生き生きとして、歌入りでのわかりやすい説明なので、乗客の拍手喝さいも出るほど楽しい旅を過すことができた。
 陸中海岸の中心、宮古からは、たくさんの乗客が乗り込んできた。この人たちも今回の「休日クラブ」を利用しての旅行者であることが分かった。
 昨日は恐らく宮古に宿泊し、美味しい海の幸を堪能したことであろう。みんな何かしら生き生きしているように思われた。栃木の宇都宮から来た夫婦と話したが、その夫婦は陸中海岸を下り、今日は宮城県の志津川に泊まるとのこと、おじさんと新しい夫婦と何気ない会話を交わしながらの気まぐれ旅になっていた。
 幾つもの停車駅を過ぎて、釜石までやってきた。ここは新日鉄釜石のあるところ、鉄の町である。ようやく霧が晴れて見事な海岸線が見えてきた。三陸鉄道は、トンネルで造られているほど、次々にトンネルが続く。いかに海岸線に山が迫っているかがわかる、リアス式海岸の最も顕著な特徴である。
 トンネルをいくつも過ぎて、昼過ぎには終着駅「盛駅」に近づいていた。三陸鉄道では、法被を着た女性が、手作りのおにぎりやそばなどを売りに来た。丁度昼過ぎであったので、こぞってみんな買い求め、即時完売となってしまった。電車の中でのあわただしい昼食も、手作りおにぎりの美味しさも手伝って楽しいひと時を味わうことができた。私はおじさんと一緒に、おにぎり2個と海藻が入ったそばを食べて満足だった。みんな車内販売で買った食事を、おいしく食べていた。東京からの5人組の女性グループも楽しそうに会話しながら食事をしていた。
 ほどなく三陸線の終着駅の「盛駅」に着いた。ここからはまたJR線に乗り換え、さらに南下する。気仙沼駅でさらに分かれ、一ノ関まで行く大船渡線と気仙沼駅で乗り換えて、海岸線を行く気仙沼線に分かれる。一ノ関で新幹線に乗る乗客はこのまま乗車であるが、おじさんと私は、海岸線を行くことにしたので、新幹線に乗る女性5人組と別れて、気仙沼駅で下車した。約18分の待ち合わせで気仙沼線に乗ることができた。
 やっぱり海岸線を下る乗客も多く、ほとんど座れない状態、何とかおじさんは座われたが、私は座れなかったので、簡易の椅子をケースから取り出し、活用することができた。
どこまでも南下する旅は、風景が少しずつ変わってくる。午前は霧模様だったのが、昼過ぎには段々夏の暑さになってきた。海岸線が見事に変化していく、車窓の風景に、ローカル線の旅を満喫していた。
 気仙沼から眠ってしまった私は、いつしか志津川を過ぎたことを知らずにいたが、宇都宮の夫婦が志津川で下車したことをおじさんが知らせてくれた。知らずに別れてしまったが、その夫婦は、志津川の有名なホテルに宿泊するとのこと、海の幸が美味しいホテルとして知られている。さぞかし今宵も美味しい夕食を味わうことだろう、などと考えていた。
 気仙沼線は、小牛田で東北本線と合流するが、おじさんはせっかく来たのだから石巻まで行ってみたいと言い出した。このままおじさんと別れるのも偲びなかったので、私も一緒に行動することにして、前谷地駅という石巻線と交わる駅で下車した。
 ここは宮城県でも北東部の大穀倉地帯、大きな平野が広がっていた。そうだ、ここが宮城県の大地主、「斎藤家」が出た場所であることを思い出した。宮城の「斎藤家」は津軽の「津島家」と同じで、戦前の寄生地主制度の下での大土地所有者、つまり大地主であった。この地域の四方見渡す限りの田園の果てまでが「斎藤家」の所有地であったと教えられことがあったことを思い出していた。
 駅の説明掲示板には、やはり「斎藤家」の所在が明らかにされており、豪華な家が描かれていた。私は近くにいながら、まだ訪ねたことがなかったが、いつかは訪ねてみたいもだとその時思った。
 前谷地駅からは、石巻線で女川行きの列車に乗り換え、石巻に向かっていた。
 北上川河口に開けた石巻は、全国でも有数の港町、伊達政宗が本当はここに城を築きたかった場所、日和山のある町である。全国一の運河「貞山運河」がこの政宗によって造られ、宮城県の南端、阿武隈川の河口まで、延々50数キロ続いている、この運河の出発点がこの石巻の北上川にあるのだ。
 近くに住んでいながら、十数年振りに訪れた石巻駅はすっかり変わっていた。
 仙石線と石巻線の駅舎が統合され、駅前がきれいに整備されていたが、町の様子は、昔よりさびれた感じであった。駅前から延びる昔の繁華街は、すでにシャたー通りになっていたが、有名なお店まで行って、お土産の「笹かま」を購入することができた。横浜まで帰るおじさんも「笹かま」のお土産を買って、いよいよ最後、完全制覇の終着駅、仙台まで、仙石線の快速電車に乗って出発した。
 夕暮れが迫った海岸線を、仙台に向かって行く列車からは、海岸風景が顔をのぞかせていた。快速電車は、松島、塩釜、多賀城を経て、約1時間で仙台駅に滑り込むことができた。
 以上、八戸から仙台まで、幾つもの駅で乗り換えながら、陸中海岸、完全制覇の旅はこうして終わることができた。
 約12時間のローカル線の旅、様々な出会いと感動をもたらしながら、やっと辿りついた仙台の駅は、まるで東京のように大きな感じがした。仙石線の地下ホームからは長いエスカレーターが続いていた。
 地上に上がったおじさんと私は、陸中海岸完全制覇の旅をやり切ったという充実感に満たされていたような気がする。
 本当に二人三脚の旅は不思議なものである。この旅の間、おじさんと一緒に行動している自分に、どこか満たされているような気がしていた。
 またできることなら、一緒に旅をしてみたいものだと、その時感じていた。おじさんと仙台駅で別れる時に交わした握手に、何故か温かいぬくもりを感じている私だった。