津軽のふるさと・・太宰治の生家、斜陽館と津軽三味線の発祥の地を訪ねて | アカデミー主宰のブログ

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 函館駅を出発した特急スーパー「白鳥」は、やがて青函トンネルに差し掛かっていた。全長53.85キロ、海底の部分だけで23.3キロのこの世界一の海底トンネルは、実に多くの尊い命を犠牲にしながら、数十年の歳月をかけて造られたもので、本州と北海道をつなぐ大動脈として活躍しているが、新幹線仕様としても造られており、早期の着工で、北海道新幹線の開業が待たれるところである。
 最深部分は、海底240メートルの深さにあり、いかに大工事であったかが伺える。トンネルに入って出るまで、約30分の所要時間であるが、これによって本州と北海道が結ばれていることを思うと、いかに重要なルートであるかということが実感できる。
 木古内駅を出てから、しばらくしてトンネルに入った。どんどん下向きに列車が入っていくのが分かる。列車の掲示板でも、現在の位置を知らせてくれていた。最深部分に列車が差しかかると、緑と青のランプが点滅し、最深部の通過を確認することができる。そこを過ぎると少しずつ列車が上向きに上昇していくのがわかる。青函トンネルを出てからも、さらにいくつかのトンネルを過ぎると、ようやく青森湾に面した蟹田駅に滑り込んだ。なんとなくほっとした安堵感がそこに漂っているのだった。
函館駅を出発して、特急で約2時間、青森駅に到着した。みちのくの最北の大きな駅は、現在、今年12月の新幹線開業に向けて活気づいているように私には思われた。

 青森駅で奥羽本線の普通列車に乗り換え、次の目標である「津軽」に向かった。
「津軽」は、簡単には行くことができない。川部駅で乗り換え、五能線に入り五所川原方面に向かうのだが、連絡がうまくつながっていなかった。小さな駅で約1時間以上待たされたが、無事五所川原に辿り着くことができたのは、午後2時過ぎになってからであった。
 「津軽」は、五所川原に向かう車窓からの風景は、がらりと変わって、どこまでもリンゴ畑が続いていた。津軽平野の広さを改めて実感できるような、広大な果樹園がどこまでもが広がっていた。
五所川原市は、人口約5万の小さな市であるが、この辺りの政治、経済の中心で様々な建物が立ち並んでいた。この駅で「ストーブ列車」として有名な1両だけの「津軽鉄道」に乗り換え、作家太宰治のふるさと、金木町にある斜陽館を目指していた。

 金木駅で下車、徒歩で約10分程の所に斜陽館がある。この辺りは、現在では観光地化されて、近くに様々な土産を売る店が並んでいた。向かいにある「津軽三味線資料館」で三味線の生演奏とビデオを見てから、展示されている資料を見て回った。
 金木町辺りは、昔は「津軽」の中心地として栄えており、津軽三味線の発祥の地としても有名であった。多くの名人がこの一帯から排出し、長い年月をかけながら、津軽三味線の文化がこの地に根付いていったようである。 
 昔は、北前船や北海道から運ばれた文化が、十三湖辺りから岩木川を上って津軽平野に広がり、様々な民族的な文化が根付き、年月をかけて守り育てられたものとみられる。
三味線文化ばかりでなく、踊りや民謡なども様々な種類があり、文化の宝庫としても今に伝えられているのである。
 「津軽」は様々な文化が今に残り、一つの豊かな民族文化の地域を形づくっているようである。
実際の津軽三味線の音色の素晴らしさを体験できて、それだけで「津軽」に来た甲斐があるほど、生体験は素晴らしいものであった。時間が遅かったのでかろうじてステージの最後の1曲だけしか聴けなかったが、私はそれだけで十分堪能することができるほど、津軽三味線の響きに納得することができた。生音の豊かな響き、一人で演奏しても、あれだけの豊かさと迫力に圧倒されていた。津軽三味線の発祥の地として、この地域の人々が、いかに大切に守り育てている文化であるかを理解できたような気がする。
資料館の外側には、常設の大きなステージが、資料館の一部として作られていた。毎年5月に津軽三味線の大会が、ここで開催されるようである。その頃にまた来て実際の大会の熱気に触れてみたいと感じていた。

 斜陽館は、太宰治の生家であるが、今では太宰の資料館として修復、復元されている。この地域の大地主であった津島家の6男として誕生した太宰治(本名津島修造)は、新しく建築された当時の豪邸の中で小母に育てられていた。 
 この建物は、まるで鹿鳴館のような洋風で、かつ豪華な和風の、まさに和洋折衷の建築物で、家の中には様々な細工が施されている。
 全部で19の部屋があり、常時30人以上が暮らしていたという。
明治後期から大正時代の経済恐慌の中で、日本の寄生地主制度の下で、貧しい農民からの土地収奪が横行し、金融業をしていた津島家が、当時この一帯の土地を買いあさり、巨万の富を築きあげたものである。
家には大きな米蔵があり、毎日のように農民や小作人から収奪した米俵が運び込まれていたという。どの部屋も見事なまでの装飾が施され、見る者を圧倒せずにはおかない。
当時の大地主が、社会機構の中間収奪者として、農民や小作人からいかに富を収奪していたかが伺えるものである。
 太宰は、ここで青年期まで成長することになるが、文学を志して、プロレタリア文学に目覚める頃には、自分の生い立ちに、相当の違和感を感じた模様であった。
斜陽館は、戦後の農地解放による津島家の没落とともに、他人渡って旅館として経営されていたが、平成の時代になって、旅館が閉鎖されるに伴って、町に寄付され、100年前の当時のままに大幅な修築、復元が行われ、今に至っているとのことであった。
 斜陽館は、津軽の明治、大正、昭和に渡る日本の寄生地主制度の「証人」として、私たちの前に無言で語っているように思われた。
 「津軽鉄道」で同席した、この地域に住むというおじさんと言葉を交わす機会があったが、いみじくもそのおじさんは、この地域の人々の津軽家に対する気持ちを代弁していた。
「この地域の人々は、太宰治については、何とも思っていない。評価しているのは外部の人だけである。」
 明治、大正、昭和につながるこの地域の農民、小作人の子孫は、代々親と共に生活感情を育んできたもので、津島の息子の文学作品さえ、未だに「太宰」を受け入れようとはしていないのである。
それほどこの地域の寄生地主制度の下での土地の収奪が激しく、農民や小作民が苦しめられ、地主、金融業の階級との対立が激しかったかが伺えるのである。
 当時の資料からは、大正末期の富山の米騒動でも明らかなように、この時代の経済恐慌の中で、土地の収奪をめぐって、全国至る所で農民や小作人の争議発生したことからも伺い知ることができるのである。
 「津軽」においても、全くその通りだったのである。斜陽館は、その当時の土地収奪の証としての現実的な姿として、また当時の社会全体の象徴的な姿として、私たちは捉えることができるのである。
太宰文学については、ここでは紙面が少なく、語ることはできない。ただこの時代の申し子として、どんなに豊かな才能があり、ヒューマニズムの溢れる作品を描こうとも、階級社会の激しさや、戦争などの険悪な時代の影響を乗り越えることはできなく、大正デモクラシーや大正ロマンの時代を生き抜いた「天才」たちと同じように、多くの「天才」たちは、自己と社会の狭間に揺れながら、「絶望」と言う深みの中で自殺していくことになるのである。
 太宰もその時代の最後の人間として、昭和23年自ら生命を断つことになるのである。39歳という若さであった。
 自殺の理由は、恋愛問題や人間関係などであったが、時代的な背景には、自我の完成と時代の後進性の狭間での葛藤の結果として確認することができるのである。

 そんなことを考えながら、斜陽館を後にした私であった。
 すっかり夕暮れが迫った、津軽平野の広大な緑の田んぼの中を、オレンジ色の電車が五所川原に向かって戻って行った。
 私は、また「津軽」に来たいと思っていた。今度は、金木町からさらに奥の十三湖方面まで足を延ばしたい。この地域の文化、様々な民族音楽に触れてみたい。そしてさらに、深浦、鰺ヶ沢、白神山地方面の五能線の旅、完全制覇を成し遂げたいと思っていた。
 「津軽」は、まだまだ奥深く、そして広く、私にさらに大きな、新たな課題を提起しているように思われた。