霧の函館・・昭和レトロが残る歴史の町並みと戊辰戦争の戦士たち | アカデミー主宰のブログ

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 列車を乗り継いで辿りついた函館の町は、至る所に「昭和」が残っていた。青函連絡船をモチーフにしたと思われる駅舎は、今では近代的な建物に変わってしまったが、駅舎からホームへの連絡通路を通れば、ホームは「昭和」そのもののたたずまいを呈していた。特急スーパー「白鳥」は、今の新幹線の時代から見れば、一時代前の「近代的」な特急なのだが、それさえもが、「昭和」仕様のホームの景色からは、ういてさえ見えるほどであった。鮮やかな緑色した特急列車が行きついたホームの向こうには、函館湾がすぐそばに広がり、青函連絡船が動いていた時代を連想させていた。
 駅舎からは、すぐ近くに、函館市場街が軒を低くしながら連なり、遥かその後方には有名な「煉瓦街」の町並みが広がっていた。
 いよいよ函館山を目指して出発、駅でもらった地図を片手に駅前のバス案内所に立ち寄った。タイムリーに函館山方面へのバスが待機していた。早速バスに乗り込み、ロープウェイの乗り場に向かっていた。ロープウェイのそばでバスを下車して上を見上げれば、山の中腹以上は、ガスで煙り、見えない状況なので、ロープウェイで登っても眼下は見下ろせないことが明らかであったので、急遽、その場所から、近隣地域の見学に出かけることにした。
 函館山に登るロープウェイの駅辺りは、坂道になっている場所が多く、様々な歴史的建造物がある場所であった。荷物を引きながら、元町公園への見学に出かけることにした。ほどなく坂の中腹に見事な形をした教会が見えてきた。ロシア正教の有名な緑の屋根の「聖ハリストス教会」であった。
他にも違ったいくつかの建物もありこの辺りは、歴史保存地区なのか、明治時代の有名な建物が今に伝えられていた。
 さらに進むと「旧函館公会堂」が見えてきた。鹿鳴館時代を思わせるような和洋折衷の洋風木造建築物で、左右対称の見事な景観を呈していた。後ろを振り返れば、函館湾の風景、オーシャンビュウーの景観が広がっていた。
 「旧函館公会堂」は歴史の資料館として公開されているので、入館料を払って中に入れば、そこはまさに明治の鹿鳴館様式の建物そのものの、豪華な建築物であった。いくつもの部屋を見学して2階に上がれば、ステージ付きの大きなホールがあった。明治の時代は、ここで不平等条約改定に向けての鹿鳴館外交が行われたことを思わせていた。
 鹿鳴館時代の貸しドレスやヘアセットまでしてくれるサービスもあって、旅の中高年の「お姫様」たちは、「自分が一番」とばかりに、豪華な衣装に身を包み、ヘアをセットしてもらい、しばし鹿鳴館時代に戻って撮影を楽しんでいた。 
 まさに明治期の豪華なドレスは見事なものである。私は、以前、劇団四季のステージ「鹿鳴館」を観賞したことがあるが、あの衣装そのものである。
 日本がいかに外国と同等になろうとして努力していたかが伺える、そんな衣装であった。日本の開国時に締結した2つの不平等条約は、その後の明治期の日本の手かせ、足かせとなりいかに日本の人々を苦しめることになったか、誰もが知っている通りである。
 この2つの不平等条約で、日本が近代国家になるためにどうしても解消したかった2つの内容(治外法権の撤廃と関税自主権の確立)の締結は、開国してから実に59年後の明治45年(1912年)、明治の最後の年まで待たなければならなかったのである。
 このことからも明治時代の人々は、殖産興業と不平等条約改定に向けて、2度の戦争を経験しながら、いかに苦しみの時代を生き抜いてきたかがわかるのである。
 そんな鹿鳴館様式の「旧函館公会堂」の見事な建物のバルコニーに出てみれば、函館湾を一望できるオーシャンビューが広がっていた。
 その他にも歴史的な建造物、箱館奉行所跡(明治期は箱館と記述)、イギリス領事館、旧函館病院跡などがあり、今は元町公園の桜の名所として保存されていた。
 函館は坂道からの景観が見事な町であった。いたる所に明治や大正の建物が連なり、その間をレトロな路面電車が走っている。煉瓦街を通り、アイヌの「北方民族資料館」のわきに大きな建物「北島三郎記念館」が見えてきた。
 そうだ北島三郎もこの地の出身である。この函館の坂道の中腹にある「函館西高等学校」に函館郊外から列車で通学していたという。
 様々な想いをよみがえらせながら、路面電車で縦横に巡りながら走っていた。
 今夜の宿泊を決めなければならない。特急「白鳥」車内の資料にあったビジネスホテルが中心部にあったので、早速電話で問い合わせ予約することができた。
 今の時代は、綿密な計画や予約をしてから旅にでる時代ではない。訪ねた先々で簡単にホテルをキープすることができる時代である。それも安価でグレードの高いホテルが、必ず駅の周辺に存在している。
 今回も4500円という安さで、朝食バイキング付き、テレビや他のサービスも充実しているホテルであった。民宿タイプが好きで、食事も同じ場所で、という人には向かないが、夕食は街に出て、好きな食事を、という人にはもってこいのホテル泊である。
 ホテルに荷物を置いて、疲れた身体をシャワーで癒した後、再び市内探索に出かけていった。
 今度は函館山の反対側、路面電車に乗り、f歴史で有名な、あの「五稜郭」に向かっていた。
 幾つかの駅を過ぎて「五稜郭前」で下車、さらに10分ほど歩けば「五稜郭公園」に着くことができた。さっそくタワーに上って見学することにした。地上80メートルの「五稜郭展望台」からは、「五稜郭」の星型の形状や函館も町並みも一望に見渡すことができる。案の定、函館山には雲がかかり山頂が見えない。函館山からの夜景の地形が、反対側の展望台からの函館の地形として、くっきりと浮かび上がっていた。
 あれが駅舎あたり、あれが港、遠くの本州方面まで望める。この「五稜郭展望台」は、函館の歴史資料館としても様々な資料を展示していた。
 明治直前の1857年着工1866年完成、10年の年月をかけて、ヨーロッパの城郭建築を参考にして造られたこの「五稜郭」は、後に戊辰戦争最後の「箱館戦争」の歴史の舞台として、多くの有能な日本の「魂」が失われていった場所である。
 戊辰戦争の評価では、官軍、賊軍での評価であり、「五稜郭」で戦った人々は、賊軍、すなわち旧幕府軍残党として、最終的には滅ぼされる運命を辿るのであるが、私は、この死んでいったたくさんの有能な人々のことを、官軍、賊軍の立場からではなく、この日本のために死んでいった素晴らしい戦士として再評価をしなければならないと感じていた。
 明治政府に取り入ることになる榎本武揚のこと知られているが、それで矮小化するわけにはいかないたくさんの戦士たちのことを、今改めて見直し、何かの作品を通して次世代に伝えていかなければならないと感じていた。
 「五稜郭展望台」に展示されていたたくさんの資料は、私にそのことを無言の言葉で求めているように思われた。
 いつの日かきっと、日本の未来や、新しい明日のために死んでいったこの人々たちのことを、私は、必ず、歴史の語り部として伝えていかなければならないと決意していた。
死んでいった有能な日本の戦士たち、幕末の動乱の中で、日本人同士が殺し合い、時代を鬩ぎ(せめぎ)合った人々のことを、決して私たちは忘れてはいけないと感じていた。
 「五稜郭」の見事な景色は、私たちに、歴史の証人として、今でもそのことをはっきりと伝えてくれているような気がしていた。
 宿に戻った私は、夕暮れの函館の街の中へ、人々の暮らしの息遣いを求めて再び歩き出していた。
 函館は、いつしか霧の中に包まれ、駅近くの繁華街には、灯りが燈り、しばしの安らぎを求める旅人が行き交っていた。私もふと立ち止まりながら、そっとその灯りの中に紛れ込んでいった。
素敵な函館の夕闇の帳が、やさしくしっとりと街を包みこんでいるようであった。
 古い酒場で 噂をきいた 窓のむこうは 木枯らしまじり 半年まえまで 居たという 泣きぐせ 酒ぐせ 泪ぐせ どこへ去(い)ったか 細い影 夜の函館 霧がつらすぎる・・・・(北の旅人、2番)
 この歌の叙情そして情感が実に似合う、夕暮れの函館の町並みが、そこに広がっていた。