明日からの3日間の旅行ですが、いったいどうなることでしょうか?大雨の中での旅行にならなければいいのですが、まだ準備が全て終わっているわけではないのです。
今日も早く起きて準備をしていましたが、テレビをつけた途端に、朝の番組でキャスターやコメンテーターが、政治についての様々な意見を述べていました。前から思っていたことですが、今日は特に感じてしましました。
いろいろ自分の考えを言うのはよいのですが、最近、キャスターも一緒になって政治の批判をする姿には、何か違和感を感じてしまします。
ニュース番組として、いろいろ詳しく報道するのはよいとして、それに対し一々コメントしながら、批判していくのには何かわけがあるのでしょうか?
今は参議院選挙の真っただ中です。今の政治の動向やサミットがどうのとか、消費税の提言を評価できるとかできないとか、番組のあらゆる場面で言い合っているのです。
コメンテーターの意見はよいとして、キャスターまでもが意見を主張する姿には、何か意図がるのではないかと勘ぐってしまいたくなります。
しかも、コメンテーターの意見も押し並べて一つの方向に収斂(しゅうれん)していくような気がしないでもないです。総括的に、キャスターも含めて、同じような意見にまとまっていくのです。これでは、マスコミを通して世論の操作をしているのではないか、その意図が明確にあるのではないか、と疑われても仕方がないような気がします。
政権交代から数カ月の間もそうであったけれど、さらに新しい政権になってからでも、野別幕なしそうやって言われたのでは、「マスコミ大合唱」と言われても仕方のないことです。政権交代前も、今にして考えれば、相当の「大合唱」があったことを思い出します。
このようなマスコミの、メディアを使った「評論家」たちの出現によって、どれだけ世論が操作され、政治の選択に大きな影響を与えたかは計り知れないのです。私は最近、参議院選挙の真っただ中の状況の中で、特にそのことを感じるようになりました。コメンテーターの意見への収斂もさることながら、何もキャスターの分際で、そこまで言っていいのか、仕事の領域、限界を超えてはいないか、などと考えてしまうのです。
現代のマスメディアの世論への影響は、過去の時代とは比べ物にならないほど大きな役割をはたしていることは誰もが知っています。
だからこそ、報道には、特に政治的な意見に対しては、「主張」するなどもってのほかです。中立の立場を堅持することが特に重要になってくるのです。
単なる報道番組の中で、キャスターやコメンテーターが、誰がどうの、政治のやり方がどうの、というようなゴシップとも思われるような発言は、特に控えるべきなのです。そうやって、知らぬ間に世論が操作されていくことを私たちはもっと注視し、警鐘を鳴らしていく必要があるのではないでしょうか。
参議院議員選挙の中間情勢も、マスコミでは、政党以上に詳しく分析し、きめ細かく報道しているけれど、そこでの様々なコメントや「主張」が、これからの情勢の変化に、どう影響を与えるのかを私たちももっと知る必要があるのです。
マスコミ関係の方々のみならず、関係各位の方々には、もっと慎重に関わり、マスコミ番組での発言には、特に注意するよう働きかけて欲しいものです。
マスコミの世論操作は、これまでもそうであったように大々的にかつ巧妙になされるものですが、気付かないでいるといつの間にかそうような思考方法になってしまっている、誰もそのことに全く気がつかないでスルーしてしまう、という恐ろしいような現実に直面してしまうのです。
今の社会情勢、政治の動きは、本当に多様で複雑です。混沌とした選挙情勢も続いています。今が一番重要な天王山かも知れません。だからこそマスコミも、このような動きに出てきているのかも知れません。
私たち国民は、マスコミによってではなく、人がそう言っていたからではなく、本当に日本国民の一人として考え、率直に判断する必要があるのだと思うのです。
普天間の問題は、沖縄の人々の戦後の全ての気持ちの集大成なのです。国民の一人としても、全く同じ気持ちで考える必要があるのです。
果たして、日米合意から出発するのがいいのか、やっぱり普天間の基地は国民の一人として、いるのかいらないのか、自分の根本から発した素直な気持ちで判断することが必要なのです。
そして、本当に、私たちの国民の代表にふさわしいのは、いったいどの集団で、誰なのかを、自分の本当の気持ちで見極める必要があるのです。
マスコミの世論操作は、歴史から見れば明らかなように、大きな過ちを犯してきたことは明らかなことです。
私たちは今こそ、苦難を生きて来たからこそ自信をもって判断した沖縄の人々のように、日本国民としての、主権者としての誇りをもって、今の時代を生き抜いていくことが、強く求められているように思うのです。
その意味で、マスコミの世論操作とも思われる一連の動きは、危険極まりない「時代」への警鐘乱打なのかも知れません。