音楽的創造活動の再スタートに当たって・・創造活動は精神的な高貴な「労働」 | アカデミー主宰のブログ

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 日本における音楽活動の難しさは、昔も今も誰もが感じていることでしょう。
昔、私も若い頃、音楽活動に夢中になっていた時期がありました。サークル活動から出発して、アマチュアの音楽運動に没頭していました。その中でたくさんの曲を作って発表もしてきました。物凄いエネルギーを使って活動していた時代がありました。
 しかし、あの時代、音楽で身を立てていくには、余りにも社会が未成熟でした。「流しのギター」で生計を立てていた人々もいましたが、70年代以降、音楽文化の革命的な変革の流れに押し流されるように、ほとんどの人が生活に困窮し、やがて潰れていきました。
 70年代や80年代初頭辺りまで、大衆的な音楽運動や創造活動をしていた多くの作詞家、作曲家、演奏家も、99%以上の人々が、音楽をやめて生活のために別な仕事を求めていきました。音楽活動から離れていったのです。
 70年代や80年代は、日本の音楽文化においてそのような時代でした。外国から音楽機材が流入し、それまであったアナログの楽器がことごとく駆逐されていきました。「流しのギター」はカラオケ文化にとって代わられ、ハーモニカやアコーディオンは、シンセサイザーやキーボードの流入によって、ほとんどの人が楽器の転向を図っていきました。私も全く同じような道を辿りました。
 早くに転向してマスターした有能な演奏家、作曲家も登場し、世の中は電子音楽一色になっていきました。喜多郎、坂本龍一、富田勲、姫神など数え上げればきりがないほどの人が、その世界で有名になっていきました。
 一方、ハーモニカやアコーディオン、その他の多くのアナログ楽器は、使い場所を失い、物置の隅に置かれたり、弾く人が段々いなくなっていきました。
ほんの一握りのミュシャンがその中をのし上がっていきましたが、その他多くの創造活動家は、働き場所を探すことができず、音楽活動を離れていきました。

 私もその一人でした。私は、当時、作詞、作曲をはじめ演奏活動など、様々な創造活動を展開しており、劇団や音楽集団からの誘いがあったにも関わらず、生活できない状況の中で、「就職」することを選びました。当時の劇団や音楽集団の月給は3000円程度で、当時の「劇団」や「座」は、全寮制の自己犠牲的な活動団体でしたから、親や肉親の生計を担う義務のあった私は、どうしても親や肉親を捨てて、音楽活動や劇団の活動に飛び込んでいくことができなかったのです。
 様々な活動を展開し、創造活動を意欲的に取り組んで、劇団や音楽集団等からの誘いがあった私でさえ、飛び込んでいくことができないほど、私をとりまく社会の創造活動家を支える環境は貧困でした。
アルバイト生活しながらの音楽活動は、限界を迎えていました。私は音楽活動を捨てることと引き換えに、生活できる職業を手に入れることができました。
 当時の私はラッキーでした。国立大学卒業の学歴や音楽実践活動で培った技術が後押ししてくれました。難関を突破し「職」を手に入れることができましたが、引き換えに音楽活動を捨ててしまいました。

 それから約40年、たまには創作活動・作曲に取り組んだり、アマチュアの「音楽遊び」はしてきたものの、逆に適当に「音楽遊び」ができるものだから、全く疑問さえ感じず、退職の時期まで過してきたのです。その間は仕事に没頭し、それなりの成果もあったし、自分の音楽活動につい考えることすらしなくなっていました。適当に給料をもらって「安定」した生活を送ってきました。

 上昇志向をもって頑張った時代もありました。それが一つの支えとなり、どんな苦しい課題にも挑戦してきました。しかし、年齢が上になるにつれて、出世の枝が、段々振り分けられて、自分の導かれる方向がわかってきました。
 上昇志向で出世するためには、様々なコネクションを創造することが必要でした。学歴閥ばかりでなく、様々なものが私の職場にはありました。一番のコネは血縁関係でした。この中にいる人は面白いように出世していきました。
 次に学校閥もありました。グループ閥もありました。そんなことはどこにでもあることはわかっていましたが、やはりいくつかの「閥」同志のはざまの中で、どのコネクションにも属さない人が、段々はじかれていきました。
 私も実感としてそのことをひしひしと感じるようになりました。
脳梗塞で倒れ、病気休暇をとった人間には最悪でした。それでも何とかなるかも知れないと必死に頑張った時もありました。でもそれは無駄な努力でした。
 閥やコネクション、グループに属さない人間は、最終的には「飼い殺し」の状態にまで追い詰められていきます。私はそのことを数年間実感してきました。
 最後の転勤で、そのことを明確に判断することができた時点で、何も思い残すことはなく、定年退職の時期ではなかったけれど、進んで退職することにしたのです。

 それから1年が経過しました。様々なことがありましたが、退職したことは、大正解でした。全く後悔することのない一点の曇りもない世界に立つことができたからです。その理由はいちいち述べるまででもことですが、やっと自分らしい生き方ができるようになったのです。
 この1年いろいろ考えてきて、昔の音楽を取り戻したいと、リハビリから始めた音楽が、様々な人々に喜ばれ、音楽することの本当の意味を知ることができました。音楽に対する意識が私の中で180度、コペルニクス的に変革されていきました。
 そして昨年から始めた音楽の教室指導、カルチャーセンターでの指導、アコーディオン教室の指導など、大変なことはいっぱいあるけれど、本当に退職してよかった、今の生活を選んで良かったとしみじみ思っているのです。
 
 さらに、自分らしい生活を創造していく過程で、また「創作の道」を選んでいるのでした。随筆もたくさん書くようになりました。
 
 「音楽ライブハウス」を具体化しようと、今取り組んでいるけれど、そんな様々な取り組みが、自分の「本当の人生」を生きる証(あかし)のように思えてきているのです。

 でも創造活動をしても、昔のように自己犠牲的な活動だけはしていけないと思っています。介護施設や福祉センターなどから依頼を受けて、演奏活動にいくこともありましたが、音楽活動家は「霞」を食っては生きてはいけないのです。音楽活動は人間の精神活動の「労働」なのです。だから無償の音楽活動は、どんなに周りが喜んでくれても、しないようにすることだと今は思っています。
 無償の音楽活動は本当の意味では、「欺瞞」なのだと考えています。
 介護施設でもし、老人に音楽が必要であれば、職員が実践するか、いなければ財政を支出してでも、老人のためにしてあげなければならないのです。
 アコーディオンやピアノが弾けるから、簡単に使えるからと言って、いいように使われては困るのです。介護施設の老人たちが、演奏が終わった時に涙を流して喜んでくれるからと、自分を説得して実践していた時期もありました。でもそれは、結果的に音楽活動家の首を絞めてしまうことなのです。
昔多くの音楽活動家が、無償の自己犠牲の活動のために、どれだけ多くの創造活動家が潰れていったかを思い起こせばわかることです。

 日本には今でも、音楽活動家や創造活動家を経済的に守っていく、育てていくという土壌がないのです。ジャスラック(著作権協会)という組織があって、随分改善されてはきているけれど、人々の意識の中に、まだまだ育っていないのです。音楽活動や創造活動に「ただ働き」が多いことで、そのことがわかります。
 私は、そのことを知ってから自分の仕事にきちんとした報酬を求めるようになりました。それ以外では「ただ働き」の仕事はしてはいけないのです。
(友達関係や自分の主体的な想いや願いで実践する場合は、全く別であるということは言うまでもないことです)
 それで今回、随筆の中で書いてきた作品の発表を、ステージで実践することにし、私の創造活動や演奏活動の再スタートとして位置づけ取り組むことにしていますいが、むやみに自らの思いだけで、報酬もなしに発表していいのかという問題にも突き当たっているのです。

 1回のステージで演奏するにも、音響機材のから、照明機材、映像機材など様々なものを使います。作品制作までこぎつけるまでも、おどけでないほどの費用もかかっているのです。それを簡単に「お願いされたから」「印刷代や費用は大学がもつから」とかの理由で、無償で、自己犠牲的に、ノーギャラで、簡単に演奏してもよいのかという問題もあるのです。

 私は、昔の自分にならないためにも、今はしっかりと創造活動家、演奏家としてのプライドをもって立ち向かっていかなければならないと考えているのです。
 ボランティアで実践している朝市での活動は、演奏というよりは、自分の練習のためというもので、代償を求めるものではないことは言うまでもないことです。
 結論:創造活動は、本当に人間の精神的な高貴な「労働」なのです。自己犠牲的な活動は、最終的には自分の首を絞めてしますのです。だから創造活動家を守るためにも、そのことをしっかり念頭において立ち向かうべきなのです。
 余りにも日本の音楽活動家、とりわけ創造活動家に対する「支え」が貧困すぎることから派生する問題ですが、音楽活動家や創造活動家本人もそのことをしっかり認識して「労働」するべきなのです。

 私は音楽活動の本当の意味での再スタートに当たって、「音楽活動家は霞を食っては生きていけない」「無報酬の音楽家活動、演奏活動、創造活動はしてはいけない」ことを十分認識しながら、様々な人生局面に対応していかなければならないと思っているのです。

 でも、音楽は本来、人間の最高の精神的な営みなので、代償がどうのという問題とは、また全く別次 元の問題なのです。だから、私は、この世界で知り合った素敵な友達のためには、今までの音楽活動の「武器」を全て使い尽くしてでも、作品を無償で創り、その思いを届けていきたいと願っているのです。

 追伸:この世界で知り合った素敵な友のために、自分が思いのたけをこめて実践する創作活動は、この範疇には該当しません。自らの欲求として実践しているからです。往々にして、その中にこそ本当の作品が創造されたりすることは、古賀正男の実例でもわかることです。

 私は、音楽的な創造活動の再出発に当たって、昔、潰れていった日本全国の多くの創造活動家の二の舞にならないためにも、今こそ本当の意味で、社会の中で創造活動できる自分自身を、しっかり守っていかなければならないと思うのです。