日本三大桜の絶景「滝桜」と自由民権運動 | アカデミー主宰のブログ

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 今年の異常気象で桜の開花が大幅に遅れたが、それでも4月26日満開最終時期に福島県三春町を訪れることができた。5月1日に「桜前線北上中、三春「滝桜」のど迫力」のタイトルでこのときの日記を書きました。
その時の文章・・・まるで町中が桜一色の町でした。滝桜は「さくら湖」に近い小高い丘に千年桜の見事な枝ぶりを呈していました。まさに滝のように降り注ぐ見事さ・・圧巻というかその存在そのものに圧倒されました。
 千年も守り続けてきた桜守の人々の努力も感じました。本当に町中が桜一色の三春町、歴史的にも有名で自由民権運動発祥の地であることも知りました。今から100年以上も前に、この地で日本の「夜明け」のために人生をかけ、時代を駆け抜けたたくさんの青春群像に、日本男児の理想の男の姿を重ね合わせ、私も一歩でもこれらの青春群像に近づきたいと心に誓ったのでした。滝桜は私たちに圧倒的な迫力で、何かを訴えかけているようでした。大きな勇気とエネルギーをもらった旅でした。本当に皆さん滝桜のように花弁を寄せ合ってがんばっていきましょう。・・・・以上でした。それから約1ケ月が経過しようとしています。
滝桜からもらったエネルギーを何かに形象化しなければという想いが膨らんでいました。
なぜ、三春町が、町じゅうが桜で埋めつくされているのか?町の至るところに「さくら」の名前があるのか?「さくら中学校」「さくら湖」等々・・・・。
千年桜の「滝桜」の迫力は一体何か?
桜の木が町じゅうに埋めつくされているのにはわけがありました。
明治時代の三春は、阿武隈山系にありながら、桑畑が広がり、養蚕業が発展していました。馬の産地でもありに、比較的裕福な土地柄で、様々な人々が暮らしていました。人々は将来の豊かな世の中を願い、900年桜を千年桜にするために桜守を代々受け継がせ、町じゅうに桜の木を植えたのでした。これは地域の裕福さの表れであり、この地に自由民権思想が生まれたのもうなずけることです。これが、私たちが現在三春で観る「桜の樹だらけ」の原型になったものと思われます。
さらに資料で調べたり、歴史資料館を見学して、三春が明治期の日本の自由民権運動発祥の地であることが関係しているのではないか?と思うようになりました。
いろいろなことが分かってきました。三春は江戸時代は城下町で、伊達62万石へ嫁いだ愛姫(めごひめ)の出身地でした。江戸から明治へ、農業や養蚕業が盛んで、明治期には養蚕取引の中心地となり、絹織物工業も栄えた地でした。
 福島県は養蚕業が早くから発展し、様々な地でマニュファクチュアの絹織物工業は発展していきました。
封建社会から資本制への移行の時期、その牽引力となるのが、まずマニュファクチュアの絹織物工業、そして綿織物工業であることは、イギリスの産業革命でも明らかなように、一般的に知られていることです。
日本における封建社会から資本制への移行が、当時全国の封建村落で起こっていたのでした。その代表がこの三春だったのです。
福島県では、伊達、保原、柳川、川俣、そして三春、主に阿武隈山系の丘陵地帯の封建村落に、時代変革のその推進力となる絹織物工業が発達したのでした。その条件としては、水はけのよい丘陵地帯と桑の栽培です。養蚕業の発展が必須の条件でした。
全国でも埼玉県秩父地方などにもその姿が見られますが、福島県の信達地方から阿武隈山系一帯は、まさに封建社会から資本制への移行段階に、資本制生産様式が萌芽的に発展していった日本有数の先駆的な地域だったのです。
三春は、養蚕業、絹織物業の他に、三春駒という馬の産地でもありました。三春人形という文化も発展し、その頃の隆盛が感じられます。
三春には、養蚕取引や三春駒の取引で、たくさんの人々が集まり、江戸時代末期から明治の初めにかけて、大きな発展をとげることになりました。
農村工業で培った人々の豊かでリベラルな思想が、この地に培われていったことは、容易に想像することができます。
こうしてこの地が、板垣退助に代表される西の高知と並んで東の自由民権運動発祥の地となったのです。
多くの民権思想家や運動者が排出されたことは自明のことですが、当時の反動的な明治政府の弾圧によって、多くの命が奪われ、処刑されていったことが、資料館の展示で理解することができました。
さらに、自由民権運動の先頭を切って闘った人に「河野広中」がいました。教科書で習ったことがあるけど、何と、この人のふるさとが三春だったのです。
今では役場前の公園に大きな銅像が立っており、現在は日本における自由民権運動発祥の地で、先駆的に時代を生き抜いたこれらの人々が大きく評価されています。
私はこの広中の銅像や資料館でみた自由民権運動で散って行った名もない人々に対し、言葉では言い表せない哀悼の想いと自分との関わりを考えるようになっていました。
そうだ、歌作りで役立てよう。日本の自由民権思想の発祥の地で、弾圧の中で、日の目を見ることなく散って行った、たくさんの「同志」のことを語り部として日本中に伝えていかなければならない。
そんな思いで歌作りがスタートしたのです。歌の力は無限大です。歌の力によって、日本中に、三春の名もない「男」たち、これこそ「日本男児」として、後世に伝えていきたいと思うのです。
今から140年以上も前、明治時代初期、自由民権運動発祥の1870年代、この三春の豊かな土壌に培われ、自由民権の思想に目覚め、日本の夜明けを目指して時代を駆け抜けていった多くの青春群像の想いを受け止めながら、新たな未来に向かってその想いを伝えていきたいと思うのです。

あの人のように・・自由民権運動に駆け抜けた青春群像をたたえて・・

1 ふるさと旅立ち 三春駒
   さくら舞い散る 滝桜
山越え谷越え 駆け抜けて
さくら湖面に 明日を探して
      駆け抜けよう時代(とき)を
       貫こう大志(こころ)を
       あの人のように どこまでも 
あの人のように いつまでも

2 みちのくいで湯の 桑畑 
   梅の香りと 桃の花
いく山いく川 越え行きて
三春の大地に 未来を探して
      駆け抜けよう時代(とき)を
      貫こう大志(こころ)を
       あの人のように どこまでも 
あの人のように いつまでも
  
3 千年さくらの 舞う吹雪
   長き時代を 見つめてた
野越え山越え 谷越えて
日本の明日を 創る旅
     駆け抜けよう時代(とき)を
     貫こう大志(こころ)を
      あの人のように どこまでも 
あの人のように いつまでも