震災ルポ⑰ 大震災の宮城東部の惨状、石巻大川、雄勝、女川、石巻市街、東松島 (2011.4.11記述)
今日は日曜日、朝から食事なしで、閖上港朝市祭りに行きました。演奏楽器を持参したのですが、震災復興のイベント開催中で、様々な団体の出し物をやっていました。震災以来2度目の閖上港朝市祭り、会場は名取市のイオンモールの駐車場でした。たくさんの人でごった返し、食のコーナーには行列が長く、とても食べるどころではありません。結局幾つかの食材を購入して帰ってきました。帰る途中に飯屋に寄って、朝食を済ませました。すっかり復興イベントのお祭りの感じで、以前の朝市の風景ではなかたけれど、復興に向けて必死にがんばっている姿が、参加者の共感を誘っていました。
お手伝いさんには朝食を置いてから出発したので、家で待っていました。家に戻って、今日の日程を話しているうちに、石巻方面へのドライブを思い立ちました。
今回の震災で、最も悲劇的な事例の一つになった、石巻の大川小学校の様子を実際に見てみたいと思ったからです。全校児童108人中、7割の児童74名が死亡または行方不明になった今回の大津波の惨事のことを、前からずっと気になっていたのですが、実際に一度見分したいと思っていたからです。
あの惨事は、果たして防げなかったのか、ずっと心の中で考え続けていたからです。
思い立ったら即行動、車を乗用車に乗り換えて、昼食を持参してのドライブです。春のようなうららかな日差しに誘われるように、高速三陸自動車道を一路石巻へ、さらに北上川沿いを十数キロ東に進んだところに、大川小学校がありました。そこは物凄い広さの旧北上川河口から5キロ上流の堤防下にありました。見渡せば、北上川の川幅の広さに驚きながら、小学校を見下ろす堤防からは、学校が堤防の下の方に見下ろすようにありました。
何と屋根まで瓦礫で埋まるほど、ここに小学校があったのか、と思うほどの惨状が広がっていました。堤防は至る所で決壊し、周りの集落も完全に壊滅状態でした。これではどんな人間も助かるはずはないと確信できるほどの惨状でした。ここで百人以上の児童と教職員が津波に呑み込まれたのかと思うと身震いがするほどでした。
なぜこれだけ多くの犠牲者が出たのか、今でも保護者からは疑問の声が出ています。学校の説明にも納得していない様子をテレビでやっていました。テレビも取り上げ、私が行った時も、テレビ局が取材活動をしていました。
あの光景を見て、どうしてそうなったのか、私も様々な疑問を感じてしまいました。当日、校長は休暇で不在だった、ということも解せないものを感じました。十数名の教職員で助かったのは1名のみ、どうして即刻高台への避難ができなかったのか。裏山は倒木のため危険だという判断があったということです。大津波は誰もが想定外だった、と校長は話していましたが、果たして、だからそれで仕方なかったのか、児童の安全確保はどんなことにも最優先すべき課題だったはずなのに、そして、それは、どんない言い分けしようと結果責任だけが問われるはずだということなのに、それが分かっていなかったのか。判断が甘かったのでは、という疑問が湧いてくるのです。
本当の意味で、あの時点で、あの瞬間、「大津波なんて」という甘い判断で、児童の安全確保は、二の次ではなかったのか、本当の意味で他人事(ひとごと)だったのではないか、という様々な疑問が湧いてくるのです。
「想定外、大津波なんて、誰ひとり経験していない」という校長の言葉にも、また、初めての登校式での校長の話にも、どこか他人事(ひとごと)のような印象を感じたのは、私だけだったのでしょうか。
本当にどこまでも、次々と疑問が湧いてきてしまいます。
この大川小学校の悲劇については、この悲惨な光景を目の当たりにしながら、いつか私も、自分の考えを、世の中に向かって、きちんとまとめたいと思いました。
考えても、考えても、納得のいかない様々な疑問が湧いてくるのは、決して私だけではないでしょう。保護者の方々は、恐らくその数十倍なのではないでしょうか。石巻地域ばかりでなく、宮城県全体を見渡してみても、あの状況の中で、高台への避難を即断して、間一髪で全員が助かった事例がたくさんありました。
この大川小学校だけが、なぜこのような悲劇になったのかを、明らかにする必要があるのではないでしょうか。これからのためにも、亡くなった子どもたちや教職員のためにも、私はそう強く思うのです。
災害がなければ、本当に美しい大川の情景も、災害の惨状の中で、風景だけが余りにも哀しみを語っているかのようでした。どこまでも澄み切った青空と春風が川面を渡り、決壊した堤防の残骸と瓦礫の山だけが、1ケ月前の惨状を物語っていました。
大川から、美しい南三陸のリアスの風景を見たいという想いに駆られた私は、釜谷峠を通って雄勝に抜け、海岸線を縫うように走る国道398号線の美しいリアスブルーラインを通って女川に抜けようと車を進めました。
真っ暗な峠のトンネルを越えて雄勝に入ったら、そこは大川以上の惨状でした。街が全て壊滅していました。小学校や中学校も廃墟になっていました。ここが日本一の硯のふるさと雄勝なのかと思うほどした。
それから女川までの道のりは、道路は所々で亀裂が入り、本当に危ない状況でした。海岸線に沿って山を越えれば小さな浜があります。それら全ての浜が名実ともに壊滅の状態でした。水浜、分浜、浪板、指ケ浜、御前浜、尾浦浜、竹浦、桐ケ崎、全ての美しい浜が、家屋が全く無くなって壊滅していました。リアスのコバルト色の海だけが、どこまでも澄んで眼下に広がっていました。
女川町に入ってそれはさらに凄まじいものでした。街中が完全に瓦礫と化していました。どこに家があったのかもわかりません。大きな水産工場も、完全に壊滅していました。2ケ月前に訪れたマリンパルも、建物だけを残し瓦礫となっていました。鉄道もどこを走っていたのか、道路がどう続いているのかもわからない程でした。全く風景は変わっていました。時代を数百年タイムスリップしたような感じでした。これがあの美しい女川の街か、というほどの変わりようでした。
石巻方面を人に聞きながら走りました。高台に大きな病院がありました。そこの1階まで津波が来たと言うことです。見上げれば30m位の高さの崖の上にそびえたつように立っていました。今回の津波の凄さを、まざまざと知らされた感じがしました。中村雅俊のふるさと、女川の街は、完全に壊滅していました。
石巻へのルートも大変なものでした。石巻へ近づくにつれて、物凄い瓦礫と悪臭が漂い、悲惨な状況でした。石巻も壊滅状態の被害でしたが、余りの悪臭なので、街の中は通らず、北上川の河口にかかる南の日和大橋を渡りながら街を眺めましたが、すっかり街全体が流されていました。
今回の震災で、一番避難民が多く暮らしている石巻の人々を思うと、胸が痛みました。日和大橋を渡ると石巻の工場地帯が続いていました。大きな製紙工場も、津波の直撃によって完全に壊滅の様相でした。どこまでも続く工場地帯や石巻の住宅地帯も、全て完全に津波に押し流されていました。
石巻から国道45号線を通り東松島へ、さらに松島から塩釜を通って仙台に帰ってきました。東松島の状況も語れない程の惨状でした。美しい東松島の風景も、街や村も完全に瓦礫と化していました。
テレビなどの報道では、北の気仙沼や南三陸のことばかり報じられているけれど、本当に報道は不公平だと私は強く思いました。報道にとって都合のいい場所にしか入らないという論理がわかりました。全国受けする場所にしか入らないのです。実際には、もっともっと酷い惨状の現実が、至る所に広がっているのです。ほとんど報道されない町や村が、いかに多いことか、今回の見分を通してそのことを強く感じることができました。
今日は、お手伝いさんと一緒にドライブしながら、話しながらの見分でしたが、私は、本当に足を運んでよかったと思いました。様々な地域の様子は、本当のことは、ほとんど知らない感じでした。テレビやマスコミ、新聞では、ほんのその一部だけだと、はっきり実感しました。
地域の方々も、自分たちの地域は、ほとんど取り上げられないと話していました。
東日本大震災の現実は、本当に目を覆うばかりの悲惨な情景に尽くされていました。でも、私たちは決して目をそむけることなく、この現実から、この場所から出発していかなければならないと思いました。
どこでも、みんな必死に生きていました。死に物狂いになって子どもを探す大川小学校の保護者の方々の姿が、痛々しいほど胸に刺さりました。
今回の東日本大震災の現実、初めて塩釜より東北部の海岸線に足を踏み入れましたが、どこでも凄まじい大津波の惨状が広がっていました。
仙台近郊ばかりでなく、本当に宮城県内の海岸線の全てが壊滅したと言っても過言ではないということを、はっきりと理解することができました。
大津波は、概ね青森、岩手、宮城、福島、千葉の海岸部を襲いましたが、やはり宮城の被害は、突出しているのではないか、ということを強く感じました。
どこに行っても瓦礫の山と壊滅の惨状、これが本当に現実なのかと思う程の光景がどこまでも広がっていました。
この風景を、元にように戻すには、果たしてどれだけの年月が必要なのでしょうか。平安時代に起きた869年の貞観津波以来、人々が1100年以上の年月をかけて創り上げて来た人間の財産の全ての物を、一瞬のうちに流し去ってしまったのです。何という自然の悪戯なのでしょう。果たしてそれは、自然の弁証法の結果なのでしょうか。
どこまで考えても分からない自然と人間との因果関係を、何とかして探り出し、明らかにしてみたいものだと思わずにはいられませんでした。