大震災の現実 その5、買い物難民と風呂難民
6日目(水曜)がやってきた。昨日お手伝いさんが来て、泊まった。久しぶりにぐっすり眠ったと言っていた。この数日、ほとんど眠られなかったそうである。
朝は、いつもに様にお好み焼きとみそ汁で朝食、その後、お手伝いさんを多賀城に送っていった。避難所に行って、配給の物品をもらって、両親に渡して、浸水した家の片付けと猫への餌やりをしてくると話していた。私も手伝うと言ったが、周囲の目を気にして断られた。変な噂が立つのが恐ろしいと言う。お手伝いさんの周りは、人間関係が厳しいと思った。
私は、急いで家に戻って、すぐにパソコンを打ち続けていた。
家での作業をぎりぎりまで目いっぱいがんばり、再度、お手伝いさんを、昼12時の多賀城駅での待ち合わせに、迎えに行った。
お手伝いさんは、自分の家の猫のえさやりと避難所で配給を受け、両親に渡して、多賀城駅で落ち合うことができた。
私は、大津波の直撃を受けた多賀城市内や、国道45号線、産業道路を通って家に帰ってきたが、その途中も有様は、凄いものであった。津波の力がこれほど凄いものかと感じさせられるほど、道路の脇の、様々な物が破壊され尽くしていた。道路の両側には、国道確保のため、早々と移動された、流された車がどこまでも並べられていた。その他の有様は、他と同様、瓦礫の山となっていた。国道沿いへの津波の襲撃の跡は、多賀城から仙台市の外れ、中野栄付近まで続いていた。
私は、当時すぐ隣の高砂で、文房具の買い物をした後に、大地震の直撃に遭遇したわけで、まさに間一髪、至近距離での回避であった。
そのことは、当時は知る由もなかったが、その時、はっきりと時間の経過を思いながら、大津波に巻き込まれることから、逃れることができたのだと思った。
午後から、家で昼食を作って食べた後、一緒に行動することにした。もう5日も風呂に入っていない。風呂に入りたくて仕方がない。お手伝いさんと話をして、風呂を探した。仙台市内の銭湯でやっているところは、3か所だけ。
何としても入りたくて、急いで車で駆けつけ、駐車場に置いてくる間に、お手伝いさんに並んでいてもらい、少しでも時間が短くなるように努力した。たくさんの人々が並んでいた。ここでは皆、風呂難民であった。雪が舞う寒空の下、約1時間半近く並んで、やっと風呂に入ることができた。
地震から、初めて風呂に入った。体全体に沁み渡るような、何とも言えない位の気持ち良さであった。それでもゆっくり入ることはできない。体を洗ってすっきり、それでも本当に気持ち良かった。
この仙台という100万都市で、その時、開業していた風呂は、銭湯が3か所、他の入浴施設が1か所だけ、どこも物凄い行列ができていた。
最初の銭湯では、整理券を配っていたが、人数が多くてあぶれたので、次の銭湯に急いで並んで、やっと入ることができた。
仙台市民、ガスがストップしている中で、誰も風呂に入ることができない。この異常事態の中で、たくさんの風呂難民があえいでいた。
やっと風呂にありつけることができて、本当に幸せだと思った。
ガソリンはどこに行ってもなかった。諦めて家に戻るしかなかった。
それでも風呂に入ることができた嬉しさで、その夜は、震災後、初めての美味しいビールを飲むことができた。何と言う気持ち良さか、ビールの美味しさをかみしめながらお手伝いさんと語り合った。
7日目(木曜)は、今度は、買い物難民となった。そろそろ食べるものが底をついてきたからである。私は、日頃から様々な食材をストックしてきたが、震災後、電気がストップしたので、早くに復旧した姉宅に、持参できる食材を持って行ったので、なおさら食料品が少なくなってきた。何としても食料を調達しなければならない。どこのコンビニもスーパーも開店していないし、幾つかの店で開ければ、数百メートルの大行列をつくった。今迄、行列に並んで買うなんて考えたこともなかったが、そうもしていられなかった。
お手伝いさんは、今日は、多賀城に戻らなくてもいいと言うので、仙台駅の大きなデパートで食料品を売るという情報を得た私たちは、早々と出かけていった。車でデパートまで、お手伝いさんを送り、並んでもらい購入したら迎えに行く作戦をとった。駐車場が確保できないからである。お手伝いさんは、快く引き受けてくれ、10時開店なのに、9時頃から並び、やっとのことで食材を購入することができた。
1時間40分程並んで購入したとのこと。購入点数の制限もあったとか、それでも様々な食材をゲットすることができた。待ち合わせの場所まで迎えに行った。その帰りには、姉から駅近くの種苗店で、野菜を分けてくれるという情報をもらっていたので、そこに寄って、頼み込んで野菜を分けてもらった。
4種類の野菜をゲット、1000円で購入することができた。食材をゲットしたことで気持ちも豊かになった。家には、パスタや麺類の乾物の在庫があったので、朝はお好み焼き、昼はパスタ、麺類、そして夜はご飯食と、食材を大事に節約して使うことにした。
幸い料理は、慣れた私なので、上手に調理すれば、節約して使うことができる。どこでも人々は、買い物難民として彷徨っている。私はお手伝いさんと共同で、何とか食材をゲットすることができた。
お手伝いさんからの連絡までは、スタジオでパソコンを打ち続けていた。
昼過ぎから、猛烈な吹雪になった。ガソリンを新たにまだゲットしていない。ガソリンはいつ給油できるか分からない状況なので、無駄にはできない。吹雪で寒いので、午後からは家でじっとして、テレビを見ていた。
燃料を供給するという政府の方針も報道されていたが、それも最初は緊急車だけ、被災者優先なので仕方がないが、こんなにも延延と行列ができている状況である。
仙台市民が、スタンドに夜中から並んで、やっと給油できたが、給油ができるまで並んだ時間が、何と13時間だという映像をテレビが流していた。
それでもやっとゲットできたその燃料難民は、嬉しそうな表情を浮かべていた。
本当に今の現実は恐ろしいほど、逼迫している。被災地ばかりでなく、その背後にいる仙台市民も、物凄い状態になっているのだ。
どこに行っても大行列の買い物難民、延延と続く給油待ちの車の列、燃料難民、そして1週間も風呂に入れなく、そろそろ限界が近付いている風呂難民の人たちが、この地域、大災害の被災地の背後にうごめいているのだ。
宮城のこの仙台で、百万を数える人々は、まるで大災害の被害からかろうじて免れたか、最小の被害で済んだことを心の支えにしながら、どこまでも必死に耐えながら生きている。
この街には膨大な数の難民が、様々な種類の難民が、助けを求めて待っているのである。大災害の被災地もさることながら、震災は、大きな爪痕を人々の暮らしの中に残し、その中で助けを待っているたくさんの人々が、難民となって彷徨い、うごめいている。
ありふれた普通の生活を取り戻すために、一刻も早い助けを、人々は待ち続けている。