近代日本百年の絶景、その8、「小林虎三郎の世界と『米百俵』の史跡を訪ねて」その2 | アカデミー主宰のブログ

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(前回からの続き)


小林虎三郎の跡を継ぐ、近代教育革命

虎三郎は明治4年、1871年、病身のため故郷を離れますが、将来を見据えた教育第一主義、いわゆる「米百俵の精神」は、長岡人々に受け継がれ、さらなる教育の普及と次世代の育成に多大な影響を与えました。

(中略)

このような近代教育の充実は豊かな人材を作り出し、英才と活気に満ちた長岡には、養蚕業や製糸、綿織物業など、新しい産業が次々と生まれました。そして幸運にも長岡の東山に豊富な「油田」が発見されると、人々は競って石油会社や製油所を設立し、この「オイルラッシュ」がさらに鉄鋼業や商業、金融業を発展させ、長岡の産業と経済は隆盛を極めていくのです。

現代まで生きる米百俵の精神

明治39年、1906年には「長岡市」が誕生し、大正、昭和の時代を通して、着実な進展を遂げていきます。後の太平洋戦争で大きな苦しみを味わいますが、人々は長岡藩の信条であった辛抱強さと「米百俵の精神」を糧にして、奇跡の復興を成し遂げたのでした。

一度ならず二度も戦禍から不死鳥のごとくよみがえった長岡は、中越地域の産業・商業の集積地として、また高速交通の要衝として発展を遂げていきます。そして恒久平和を誓い、物資や食料が豊富となり、教育制度が確立された時代においても、「米百俵の故事」は長岡に語り継がれ、その思想は脈々と受け継がれています。

(中略)

「まちの繁栄も、国の発展も、要となるのは人である。逆境にあろうとも、人を育てるのだ」かつて、小林虎三郎が己の信条を貫いて世に示した「米百俵の精神」、そては、現代まで伝承されるときを超えたまちづくりの思想であり、長岡人に宿る魂でもあるのです。   

(「米百俵めぐり」より)

 

上越新幹線で長岡駅に降り立った。近代的な大きな駅舎、交通の要衝としての新潟県中部に位置ずる中心都市としての印象であった。駅の観光案内所に行き、「米百俵」に関する史跡を尋ね、合わせてそこで観光パンフレットを頂いた。原田悠里似の観光案内人が、丁寧に教えてくれた。

まず「米百俵の群像」の見学が先だということになり、市の循環バスに乗って出かけて行った。市内は雪国とあって、歩道には雁木のような屋根が掛かっていた。市内は、近代的に模様替えされて、とても美しい感じがしたが、城下町の名残なのか、11軒の間口が狭いように私には思われた。

反面、奥には長いようで、これがどこにでもある城下町の名残のように思われた。

市の循環バスで、信濃川に架かる長い橋を渡った向こう側に、近代美術館があった。そこでバスを降りて、広場にある「米百俵の群像」のブロンズ像の見学に行った。

「米百俵」の話の中の、小林虎三郎が、米を分配するように迫る藩士たちに向かって、「在常戦場」の藩主の教えを説明しながら、説得する場面が、見事なブロンズ像の群像として、立っていたのである。

十名ほどのブロンズ像が、その場面を余すところなく描いているように私には思われた。「米百俵」の世界が、象徴的にそこに描かれていたのであった。道路はさすがに雪はなかったが、周りはうず高く雪が寄せられて山のようになっていた。雪国の風景がどこまでも広がっていた。

「米百俵」のブロンズ像の見学を終えて、再びバスに乗って駅に戻ってきた。信濃川の橋のたもとには、「東詰」とか「西詰」とか言う停留所があって、昔の名残を残しているように思われた。

信濃川は初めて見る川であったが、何とその川幅の広いこと、その広さに驚いていた。昔は、川の水運で経済が動いていると思われるほど、この川の地域の経済に果たした役割は大きいと感じていた。

新潟県の中部に位置し、この地域の経済の中心都市として発達した長岡は、思ったより凄く大きな町だと思った。

秋にある「米百俵祭」ばかりでなく、夏の「長岡花火大会」は、全国三大花花火祭りとして有名であるが、その理由が少しは納得出来るように思われた。

駅まで戻ってきて、今度は「国漢学校」跡地にある「米百俵の石碑」を探しに出かけた。街の中心部にあるということであったが、なかなか見つけられなかった。やっとの思いで見つけることが出来たのであるが、何と中心部の通りの角に、四角い大きな石碑が見下ろすように横たわっていたのである。「米百俵発祥の地」という文字が並んでいた。

帰りに近くの市民センターに寄って、見学をしながら、いろいろな資料を頂いたし、職員に話して貴重な「米百俵」に関する資料を頂くことが出来た。

その他にも様々な見学スポットや資料館があるということであったが、時間的な制約で、今回はここで止めることにした。

お腹が空いてきたので、駅に戻り駅中のレストランで昼食を頂くことが出来た。

半日掛かりの見学であったが、長岡の地に降り立ち、私は様々な学びを体験をすることが出来た。長岡市のイメージがこれまでと全く変わったし、これほどのたくさんの人材を世の中に排出した街だということを初めて知って、この地域の素晴らしさを改めて感じることが出来たように思われた。

長岡の「米百俵の思想」は、どんな状況にあろうとも、教育が国をつくる、人材を育成することが、次の時代の繁栄をもたらすことが出来るという、教育第一主義の思想を改めて知ることが出来たということであった。

「米百俵」の事実は、近代日本百年の絶景として、その上位に位置するほどの輝かしい事実であるということを、改めて確信することが出来たのであった。

小林虎三郎の「米百俵の世界」、私たちにはあまり知られていない人物の世界であったが、何と今の日本の現在を導き出した、近代日本の絶景として、これからも永遠に、私たちは学び続ける必要があることを、帰りの電車の中で強く思っていた。

いつか再び長岡をゆっくり訪れ、他の史跡や全国に名だたる花火大会や「米百俵祭り」に参加してみたいものだと思っていた。その中で現在の長岡の人たちと触れ合いながら、脈々と流れ、受け継がれる近代日本の百年の絶景を、さらに深く感じ取ってみたいと考えていた。

越後の長岡は、再び訪れてみたい、そう心に強く感じている私であった。