雪国の 信濃水運 交易に
要衝の都 越後の要に
米百俵の 精神に
奇跡の繁栄 その理由(わけ)知りぬ
頑固一徹 虎三郎
「在常戦場」 藩士に説きぬ
ゆるやかに 豊かに流るる 信濃川
いのちの源 豊穣の大地
3月1日、トンネルを越えれば、まだ、この時期でも雪国かと思っていたが、それでも、今回は越後の長岡を目指していた。上越新幹線で長岡に降り立ったのは、昼近くになっていた。雪は積もってはいなかったが、市内の所々にまだ残っていた。郊外は白一色の冬の景色になっていた。
昔、Utubeの動画で観た「米百俵」の世界を訪ねてみたいと、かねがね考えていたからだった。少し前に、時の総理が国会での演説で、「米百俵」を引用しながら、その時の郵政改革を国民に押し付けようとしていたが、その時の引用の仕方は、実際の内容を歪曲したもので、その本質とは全く違ったものであると、動画を観ながら思っていた。
その時の時代の状況も違っているのし、その内容は、教育によって国家の復興を成し遂げるという内容にも関わらず、本筋を拡大解釈して、国会での演説に引用するなど、曲解も甚だしいものだと思っていたけれど、それによって「米百俵」の事実が国民に知れ渡ることにもなってしまった。
この「米百俵」は、後に、山本有三の戯曲で知れ渡ることになり、それが映画化されて、今でもネットで観ることが出来るようになっていた。それを私はたまたまネットで全編を観て、深い感動を覚え、一度訪ねてみたいと思っていたし、ある程度の知識はもっているつもりであった。
「米百俵」の世界は、実際はこうである。正しく記述するために、観光パンフレットから引用することにしたい。
戊辰戦争で焼き尽くされた長岡に、三根山藩から送られた百俵の米。時の長岡藩、大参事・小林虎三郎は、これを分配せずに売却して資金をつくると、反対する藩士たちを説き伏せて、国漢学校の整備に充てたという。「まちとは、人が興すもの、まちづくりは。人づくりから始まるのだ」この思想は、長岡の地に深く根を張り、まちの繁栄の礎となっていった。これが、山本有三の戯曲「米・百俵」によって世に知られた、長岡の誇り、「米百俵」の故事である。
「米百俵のまちづくり」には、
「国が興るのも、滅びるのも、ことごとく人にある。その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。食えないからこそ、学校をたて、人を育てるのだ」と書いてあった。
脈々と受け継がれる、越後長岡の「米百俵の精神」
戊辰戦争での勇戦、そして転落
時は幕末、慶応4年、1868年1月3日、旧幕府軍と薩長連合軍が、京の鳥羽伏見で激突。これに勝利を収めた連合軍(新政府軍)が越後にも迫り来ると、長岡藩軍事総督・河井継之助は「武装中立国」という独自の国家構想と非戦思想を抱いて、「小千谷会談」に臨みます。
しかし、あえなく会談は決裂し、継之助はやむなく抗戦を決意。やがて静けさをもっていた長岡の地は、北越戊辰戦争における最大の激戦地へと塗り替えられていきました。
このころ、継之助の断行した改革によって財力を蓄え、まれに見る近代武装を整えていた長岡藩は、奥羽越列藩同盟の先陣を切って開戦すると、圧倒的な兵力を誇った新政府軍をたびたび窮地に陥れました。
その雄姿、城が落ちても最後まで諦めず、譜代大名の名のもと、徳川三百年の恩顧に報いようと忠義を貫いた戦いぶりは、今日に至るまで語り継がれています。
しかし、3ヵ月にも及ぶ熾烈な攻防戦の結果、家々は焼かれ、田畑は荒廃し、三百数十名余りの隊士と、百名に近い町民や領民も犠牲になるなど、長岡は壊滅的な打撃を受けました。さらに戦後、藩は「賊軍」の汚名を着せられ、辛い歴史を歩み始めます・
藩主牧野家の断絶は免れましたが、禄高は7万4千石から2万4千石に減封され、藩士らの暮らしは飢餓と貧困を窮めました。
廃墟の中に送られた百俵の米
こうした中、明治3年、1870年5月、長岡藩の窮状を見かねた支藩・三根山藩から、百俵の救援米が届きます。粥をそそるばかりの食事で、空腹に耐えかねていた藩士たちはこの報に沸きあがり、いつになったら届くのかと、米の分配を一日千秋の想いで待ちわびました。
一方、藩の復興に奔走する長岡藩庁では、この米の使い途を議論した末、次のようなお触書を発表します。「みなさんには三月以降、面扶持を与えているので、辛くても今は何とか凌げるだろう。百俵の米は、文武両道の稽古に励むため、必要な書籍や器具の購入に充てたい。そうすれば三根山藩の好意にも沿うはずだ」
当時から遡ること1年前、文武総督に任命された小林虎三郎は、自著「興学私議」で唱えた「教育を普及し、人材を育てることとこそ、国家の繁栄の礎」といおう理念を実現させるべく、昌福寺の本堂を借りて「国漢学校」を開校していました。
百俵の米が届いたのは、新校舎を整備していた最中のことです。小林虎三郎は、憤慨して詰め寄る藩士に「目先のことにとらわれない、国家百年の大計」つまり「ひもじい今だからこそ、学校を建て、子どもたちを教育するのだ」と言う人づくりの重要性を説いて諭すと、この米を売却して資金をつくり、主に学校の書籍や器具なdぽの購入費に充てたのです。
長岡の教育の礎「国漢学校」の誕生
明治3年、1870年6月15日、坂之上町に完成した国漢学校の新しい学び舎が、開校式を迎えます。焦土に発つ質素な校舎でしたが、人々の理解と協力を得た虎三郎の先験的な教育思想が、着実に実を結ぼうとしていました。
学校は、かつての長岡藩校「崇徳館」から飛躍的な近代化を遂げ、武士や町民、農民という身分を分け隔てなく教育の機会を与えました。
そして世界に通用する多面的な教育を得られるようにと、講義内容には「国漢」の名が示すとおり、主流だった「漢学」に、当時としては珍しい「国学」を加えたのが特徴です。
また日本史や世界史、地理、物理などを学ばせたほか、専門課程の洋学局、医学局も設置しました。
教授陣には田中春回をはじめとする若い人材を揃え、授業方法には「輪講」という、今日のゼミナール方式を採り入れています。
この国漢学校は同年10月の廃藩置県によって柏崎県へと移管されて「分黌(こう)長岡小学校」へ、さらに「坂之上小学校」へと変遷します。また洋学局は中等教育機関として「長岡洋学校」設立の基礎となり、後に「長岡中学校」を経て「長岡高等学校」に引き継がれていきます。
国漢学校の名は、わずか2年あまりの存続でしたが、実体は長岡の近代教育の始まりとなり、その流れを汲んだ学校からは、日本の繁栄に貢献する逸材たちが数多く巣だっていきました。
かつては逆賊と呼ばれた長岡藩の子弟たちが、新しい国家を担う重職に登用されていったのです。(続く)