近代日本百年の絶景、その2、「白亜の殿堂、古賀政男音楽記念博物館を訪ねて」 | アカデミー主宰のブログ

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楽友を追いて、みちのく 尋ね来し

      生命(いのち)燃ゆる日 いで湯の里に

 

身を焦がし 生命(いのち)絶たんと 若き日の

      語り継がれし 永遠(とわ)の絆に

    (古賀政男の輝かしい人生を讃え、かつ宮城の足跡を訪ねて)

 

明治、大正、昭和の時代を駆け抜け、近代日本の大衆音楽の礎(いしずえ)を築いた古賀政男の音楽記念博物館は、余りにも白亜の殿堂という言葉が似合う建物であった。

東京駅から中央線に乗り換え、新宿駅で下車、小田急線に乗って、幾つかの駅を通り過ぎた。準急で初めての停車駅であった。

代々木上原で下車し、高架橋に沿った道路を歩き、広い道路を左折した瞬間、左手の坂の上に、突如、白亜の殿堂が見上げるように聳え立っていた。

 

高架線沿いの狭い路地を歩いてきた私は、太い道路に差し掛かり、左手に左折しようと振り向いた瞬間、眼前に、まるで大きな建物が立ちはだっているように思われた。

豪華な白色のコンクリート造りの建物が、まるで見上げるように、そびえ立って、私に迫ってきたのである。

 

道路から階段を上り、広いエントランスを通り抜け、入場料を支払って、入口から建物に入った。

 

ここは「古賀政男音楽記念博物館」、広々とした会館の中の1階には、「けやきホール」

と言って、コンサート会場が併設になっていた。

折しも、古賀政男の最後の弟子として有名な大川栄作のコンサートの昼の部が行われていたのである。昼の部も夜の部も、チケットは完売で、満席ということであった。

 

何も、コンサートを聴きにきたわけではないので、コンサートが行われている静かなロビーに沿って、古賀政男に関する資料の展示を見分していくことにした。

建物は、地上3階、地下1階の大きな建物で、実に丁寧に造られ、資料も見事なまでに、緻密に展示されていた。

1階から2階へ、様々な展示物を見分して行った。膨大で、かつ様々な古賀政男の音楽の業績が、所かまわず網羅されながら、資料が展示されていた。

 

特に3階には、旧古賀邸の玄関の部分、書斎が一間丸ごと、和式の日本間が2間、合計3部屋が昔のままに移築されて、3階に復元されていたのである。

見事なまでの大正ロマンを思わせる洋風な手すりの玄関の造り、書斎の豪華な大正ロマンの香り漂う和洋折衷の造作模様、和室の何とも言えない日本調の重厚な造りに、ただ驚いてしまうばかりであった。

記念博物館が再建されるまで、この場所にあった旧古賀邸が、いかに素晴らしく豪華なものであったか、ただ驚くばかりであった。

作品創造を主な内容の音楽の仕事だけで、巨万の富を得るとこうなると言う証(あかし)を見ることが出来たように思われた。その他にも豪華な丁度品、様々な賞状の数々、一つ一つが価値あるものばかりが展示されていたのである。

 

最後にエレベーターで地下に下りれば、そこには、カラオケのスタジオが幾つかあり、全てにカラオケ装置が設置されていた。いわゆるステージ付きのカラオケボックスがあり、お客さんがカラオケを楽しみながら、CD収録に取り組んでいる所であった。

CDの収録も可能なスタジオで、その他、図書室のような書架は、音楽関係の書籍で埋め尽くされていた。地下にもスタッフが常駐していて、様々なりウエストに対応できるようになっていた。

 

私は、正味小Ⅰ時間ほどの見分だけを済ませて、1階に上がると、先ほど開演中であったコンサートが終了し、ロビーには人が溢れていた。

折しも、大川栄作のサイン会が開催されて、ピンクのスーツを着た大川栄作が、忙しそうにサイン会に対応している姿を観ることが出来た。

今日は、延べ19曲を熱唱したということで、観客の人々は、とても素晴らしかったと口々に興奮した様子で話していたのが印象的であった。

 

1時間程滞在し、記念館を後にしたが、古賀政男の業績について、いかに凄いものであったかを、改めて思い知らされたような気がしていた。

 

明治から大正、昭和と時代を駆け抜け、日本の大衆音楽の礎を築いた業績は、計り知れないものだと思った。

古賀政男については、宮城県と関係があり、前に「影を慕いて」が、宮城県で創作され、古賀政男の音楽人生の出発になったことで、自主的にバスツアーを企画して、青根温泉や村田町を巡ったことがあったので、結構知っていると思っていた。

しかし、宮城県に関する部分は、ほんの一コマだけで、やはりこの音楽記念博物館に来ることで、知ることが出来たことが沢山あるような気がした。

自分では知っていると思っていたのだが、まだまだ知らないことばかりだと思った。

 

私は、古賀が明治大学在学中の音楽活動や、級友大沼幸七との関わりの中で、「影を慕いて」が、実は村田町の大沼幸七の実家で作曲されたものだという、まだ世間には知られていない事実を突き止めることも出来たと思っていた。でも古賀政男の全業績から比べれば、ほんの一コマの発見でしかないと言うことを、改めて思い直してた。

それ程、音楽記念博物館には、古賀政男の全業績が凝縮されているように思われた。

まだまだ自分は、古賀政男の音楽についても、その業績についても知らない事ばかりだと思えて、今回、思い切って訪ねて本当に良かったと思った。

 

東京のど真ん中、新宿からも遠くない代々木上原の地に、こんな豪華な音楽記念博物館があるということを知って、これからも古賀政男の研究に取り組んでいきたいと思った。

宮城県と関わりの深い古賀政男の音楽人生に学びながら、私も、時代は違うけれど、古賀政男の人生を追い駆け、少しでも近づいていきたいと思っていた。

近代日本の大衆音楽の扉を開いた古賀政男は、日本の音楽界で、初めて国民栄誉賞に輝いた人物でもあり、その偉大な業績は、他の追随を許さないものがあると思った。

まさに日本の音楽界の絶景が、今ここに存在してるように私には思われた。

 

これからも古賀政男に学び、その豊かな人生を追い駆けながら、自分の人生を重ねていきたいものだと、いつしか心の中で誓っていた。