カウンセリングサービス代表の平準司です。
人を愛したとき、私たちは一度は必ず、その相手に向かって愛を伝えねばなりません。
超恥ずかしがり屋の人の場合、おつきあいを始めるときや、プロポーズをするときに、たった一度、言うだけかもしれません。
それでも、いろいろな場面で、愛情表現をすることは求められます。
しかし、私たち日本人というのは、この愛情表現というものに慣れていないというか、とても恥ずかしいと感じる国民のようです。
それは心理学的には、子ども時代に、パパやママが愛情表現をしあっている姿をほとんど見たことがない‥‥、つまり身近なところにお手本がなかったことが、そのいちばんの原因だといわれています。
すると、私たちはついつい、テレビなどで観る恋愛ドラマや恋愛映画を参考にしてしまいます。
しかし、それらは、自分とはまったく違う種類の人のコミュニケーションのように感じられ、「自分のような者が、そんな表現をしてもサマにならない」などと感じてしまうようなのです。
思春期のころ、あなたは大好きな人の前で、その好きな気持ちを知られたくないばかりに、そっけない態度や悪い態度をとった経験はないでしょうか。
それと同じように、「好き」や「愛してる」をコミュニケーションすることは、われわれ日本人にとってはとても勇気がいることになっているようです。
ある、しょっちゅうケンカばかりしている夫婦の奥さまの側のカウンセリングをしたことがあります。
そのとき、いちばんのケンカの原因は、彼女が「好き」がちゃんと言えずに、その反対の悪い態度をとってしまうために、ご主人を怒らせてしまうことだということが判明しました。
そこで、その奥さまに「たまにはちゃんとご主人に、愛してると言ってあげましょうよ」と提案したのですが、「そんなことが言えるぐらいなら、ケンカもしませんし、こんなところにも来ません!」と怒られてしまいました。
代わりに、奥さまの気持ちをご主人に伝えるためのいろいろな提案をしたのですが、その中で、唯一できることとして、食卓に毎日、一輪の花を飾るということをすることになりました。
これが奥さまの精一杯の愛情表現だったわけです。
このわかりにくい愛情表現に対して、ま、当然だとは思うのですが、1カ月ほどの間、ご主人は無関心、無反応。
しかし、奥さまにしてみると、だんだん腹も立ってきます。
だって、彼女にとっては、どれだけ「愛している」と言っても、ご主人が反応を返してくれないのと同じなわけですから。
そして、そんなとき、ふと、ご主人が言ったのです。
「そういえば、この邪魔な花びん、なに?」。
ま、たしかに、食卓に花びんがあるのはちょっと邪魔だったかもしれません。
が、邪魔という言葉に対し、奥さまは大爆発。
そして、怒りのエネルギーとともに、こう叫んでいました。
「なによーーー! 邪魔だとーーー! 私の愛が邪魔だというのかーーー!」。
びっくりしたのはご主人のほうです。
花びんがいつのまにか、奥さまの愛に替わっていたのですから。
「なんでそうなるの?」
そして、ご主人が、「なんで花びんがおまえの愛やねん?」と問いつめたところ、激怒していた奥さまの顔は真っ赤になり、そして、ことの顛末をご主人に話されました。
ご主人は黙ってその話を聞いていましたが、聞き終わると、「わかった」とひとこと言っただけだったそうです。
その場では、恥ずかしさのあまり引き下がってしまった奥さまですが、そのあとは、もう、怒り心頭。
私に恥ずかしいことを言わせたうえ、それを「わかった」のひとことだけですまされたのですから。
「もう二度と一輪挿しの花など飾るもんか!」などと思いながら、その夜はほぼ一睡もできぬまま、朝を迎えられたそうです。
ところが、その朝、ご主人は早く起きて、なにかをされていたようなのです。
そして、奥さまが食卓に行ったところ、なんと、処分しようと思っていた一輪挿しの花が二輪になっていたのです。
朝早く、ご主人が近所でお花を一輪摘んできて、奥さまの一輪挿しに挿したわけです。
それを見た瞬間、奥さまは号泣‥‥。
昨今の若い世代の人々は、パートナーに愛を伝えるということにさほど抵抗はないようです。
でも、みなさんのおとうさんやおかあさん、おじいちゃんやおばあちゃんの世代には、風習としてそういうことがまったくありませんでした。
したがって、頭ではわかっていても、愛情表現ができない人たちというのも存在するわけです。
私の長いカウンセリング生活で、ある昭和1ケタ生まれの男性が伝えてくれた言葉がいまだに印象に残っています。
それは、こういうものでした。
「息子や娘に、私はおまえたちをとても愛していると伝えてやったとしたら、それがどれだけ二人の励みになるかということはわかっています。
しかし、がんばって伝えようとしても、われわれの世代にとっては恥ずかしすぎて、どうしてもできないのです」。
たしかに、このようなタイプの人は、自分の息子や娘に言葉で愛を伝えることはできないかもしれません。
しかしながら、なにかがあったときは、自分の命を差し出してでも、子どもを救おうとするような愛を示されるのです。