カウンセリングサービス代表の平準司です。
彼女はとても忙しい人でした。
実家は伝統工芸を生業とする職人さんの家で、彼女も祖父からその仕事を受け継ぎました。
もうだいぶ前から一人前の職人として活動し、いまでは、数人のお弟子さんもいるほどのキャリアと実力の持ち主です。
伝統工芸はとにかく技術を極めるのには時間がかかります。
そのせいか、彼女は40歳を過ぎているのですが独身で、結婚する気もあまりありません。
いってみれば、この仕事と結婚したようなもので、自分の心を夢中にさせてくれるものを2つも持つ必要はないと彼女は感じているのです。
ところが、最近になって、自分の仕事にしばしば退屈さを感じることに彼女は気づきました。
それで、この日、私どもにご相談にみえたのです。
一つの作品をつくるのには数カ月を要するのですが、経験豊富な彼女は、「この作品はおそらくこんなふうに仕上がるだろう」と予測することができ、実際、そのように作品はできあがるといいます。
その過程で、より高い目標をつくり、それを追求していくわけですが、「そのときに感じる情熱のようなものが、かつてに比べ、どんどん薄れてきているんですよね‥‥」と彼女は言いました。
どうやら彼女は右脳タイプで、その生き方においては、「心が動く」ということがとても大事なこととなっているようです。
彼女は毎日、同じ工房にいて、朝から夕方まで、だいたい決まった時間を製作に費やします。
悪い言い方をすればマンネリ化したその暮らしの中で、自分のクリエイティブな感性が凍っていくようにも感じているようでした。
芸術家や音楽家など創作をする人は、心がたえず広がっていったり、刺激を感じたりといったことを必要としているものです。
そこで、そうした人々がよく実践していることとして、私は彼女に旅行をすすめてみました。
外国に行くと、まったく違う常識をもち、まったく違う生き方をしている人々のエネルギーに触れる機会があるものですが、芸術や音楽に取り組む人々にとって、それが素晴らしいインスピレーションになることを知っていたからです。
私は彼女に、「惹かれている場所や国はありませんか?」と聞いてみました。
すると、“グランドサークル”と呼ばれるアメリカ・ユタ州の国立公園が以前からとても気になっていたとのこと。
そこは赤茶けた大地と、西部劇に出てきそうな砂漠が広がる場所で、緑といえばサボテンしかないような地域なのです。
その後、彼女は休みを調整し、ユタ州への旅行を実現しました。
そして、しばらくして、とてもイキイキとした様子で、面談カウンセリングにやってきたのです。
専門的なことは私にはまったくわからないのですが、彼女がうれしかったのは「いろいろな赤色に会えたこと」だったそうです。
エンジや朱色、オレンジがかった赤の色‥‥。
それらの色を原住民であるネイティブ・インディアンの人々は、衣の染色やお化粧にとても上手に取り入れているのだとか。
それが彼女にとって、とても大きなインスピレーションになったらしいのです。
心理療法の一つに、“転地療法”というものがあります。
それは、たとえば、うつなどによって心が固まってしまったような状況のとき、まったく日常と違う場所に行き、一定期間、住むという方法で実践します。
場所が変わると、ふだんは使っていなかった感性や感覚が刺激され、新しい自分を生み出しやすくなるというのが、この療法の基礎となる考え方です。
そして、これは、夫婦関係がいきづまっているときや、マンネリ化から抜け出せなくなっているときなどにもよいといわれます。
日常をちょっと離れた旅行などを楽しむことで、まったく新しい関係がスタートすることもあるようです。