油食林間のブログ -2549ページ目

神の愛

「旧約聖書は律法(ユダヤの掟=法律)で人を裁き、新約聖書には神の愛が書いてある」という偉い牧師さんのお話を聞いた事が在りました。まあ、いろいろな方が牧師さんになられるのは良い事かと思いますが旧約聖書にも神様の愛が書かれています。いやむしろ、新約聖書で言われている殆どの事は旧約聖書とほぼ同じだと思っています。 一例を上げてみましょう。

レビ記19章18節です。
ヘブル語の原典には(原語のへブル語聖書を語順そのままに日本語にしてみます=直訳)

★・無い あなたが復讐する そして無い あなたが維持する を 息子らの 民あなた そしてあなたが愛する に 共にいるあなた として からあなた 私が ヤハウエ 

70人訳は (これも原語のギリシャ語を語順そのままに日本語にしました=直訳)
●・ そして 無い あなたが確かに出て義(報復)する あなたの その 手が、そして 無い あなたが確かに激怒(復讐)する その 息子らに その 民の あなたの そして あなたは確かに愛する その 近いを あなたの 様に 自分自身。 私が 私が存在し続けている 主。

これは旧約聖書レビ記の19章の18節で、新約聖書と全く同じ様に「隣人愛」について教えている所です。それぞれを日本語に翻訳してみましょう。

へブル語の方は、
★・あなたは復讐してはならない。あなたはわたしヤハウエ(神名)があなたにした様に あなたと何時も一緒にいる家族や同族を愛し続けなさい。
ギリシャ語の方は、 
●・あなたは自分の手であなたの同族達に正しい報復は出来ません。反対にあなたは自分自身の様にあなたの一緒にいる国の人たちをしっかりと愛しなさい。神である私自身が言っているのです。

旧約聖書のヘブル語の訳ではハッキリしませんが、70人訳の方は新約聖書の主張にそっくりです。と言う事で新約聖書も旧約聖書も全く同じ様に神様の聖や義や愛を教えている事が分かります。
そればかりではありません。この前後の文脈を見て見ると面白い事が分かります。それは、旧約聖書をギリシャ語に訳した70人訳聖書で用いられているギリシャ語の訳語は新約聖書に良く登場する言葉ばかりなのです。特に新約聖書で重要だとされている用語はこの70人訳のギリシャ語訳の旧約聖書と殆ど同じなのです。
具体例を上げましょう。たとえば旧約聖書の「罪の赦し」は70人訳に「アフイエーミ」というギリシャ語で訳されています。そしてこの言葉の意味には「赦し」という意味はありません。「放置」と言う意味なのです。
 新約聖書も旧約聖書もこの「アフイエーミ」というギリシャ語をつかって罪の赦しを教えているのですが、その本当の意味は英訳や邦訳聖書が用いている訳語の「赦し」が正確な訳語ではないことが判明します。聖書が教えている贖いとは「罪の赦し=罪の消滅」ではなく、「罪の放置=請求権の放棄」と言う意味なのです。新約聖書も旧約聖書もこの「アフイエーミ」というギリシャ語を使って教えている教えは「罪が消えてなくなる」のではないのです。新約聖書も旧約聖書もこの「アフイエーミ」というギリシャによって神様が罪に対する刑罰の要求を放置してくださると神様の恵みを教えているのです。
  この様に旧約聖書が今から2300年程前に、エジプトのアレキサンドリアと言う町でへブル語からギリシャ語に訳された時に、使われたギリシャ語は、私たちが手にしている新約聖書のギリシャ語の用語とほとんど同じなのです。ですから新約聖書が旧約聖書よりも優れていると言う事は全くありません。新約聖書がイエスキリストのお弟子(使徒)達によって記された当時、新約聖書の言葉もギリシャ語に訳された旧約聖書も当時の人々には内容的にほぼ同質だったのです。

  ただ残念な事にへブル語原文から英語や日本語に訳された旧約聖書とギリシャ語原文から英語や日本語に翻訳された新約聖書の訳語の整合がなされていない為に、翻訳だけを読んでいると新約聖書と旧約聖書が全く違った様に感じているだけの事なのです。

 聖書を分かりやすく箇条書きしたと言われるウエストミンスター信仰基準に言われているように「新約と旧約は同質の契約が違った時代に存在していた」と言う表現が本当に正確なのだと言うと事なのです。これに反対して新約聖書と旧約聖書が異質だという立場をとるキリスト教会の教派が在りますが、その原因は簡単です。聖書を原文で読む努力を怠っている丈の事なのです。

黄金律 Golden Rule

 今日は皆様に聖書で一番大切な教えをご紹介しましょう。とりあえず以下をご覧ください。

1・そして あなた方は作る に彼 として 所の 彼が企んだ に作る事の に兄弟彼 
2・ そして あなた方は確かに作る 彼に する所を やり方を 彼が自分の為に邪悪した 作る事を 下に その 兄弟 彼の、
3・為に 彼らが行い続けている あなた方に その 人間らが、あなた方は行い続けろ 彼らに 同じように。

これはなにか分かりますか。

「1・」はへブル語旧約聖書申命記19章19節、
「2・」は70人訳ギリシャ語旧約聖書申命記19章19節 
「3・」は新約聖書のルカによる福音書の「6章の31節」

 のそれぞれの聖書原文をそのまま、順序を変えずに日本語に置き換えたものです。言うならば「直訳」です。これをいずれも日本語に訳してみましょう。

1・誰かがあなたになそうとしている事をその通りにその人に行いなさい。
2・その人があなたになそうとしている悪をあなたは全く同じようにその人に行い続けなさい。 
3・ある人があなたにしようとしている事をあなたは全く同じようにその人達に行い続けなさい。

 分かりますね、いずれも全く同じ事を言っています。そしてこれが大切なのは「3・」の新約聖書ルカによる福音書の6章の31節で、有名な「最高善」あるいは「黄金律=Golden Rule」として聖書の中で最も大切な教えとして世界中で認められている言葉なのです。しかし、皆様はお気づきでしょう。普通に手に入れる事の出来る新約聖書の英訳や邦訳と原文とは随分と様子が違うのです。

まあ、いろいろな方がいろいろな制約やご事情の中に訳されている文面に対しての批評はここでは控えましょう。大切な事は「誰がどう訳したか」ではなく「聖書がなんといっているか」では無いでしょうか。
  そしてこの言葉は旧約聖書のオバデヤ書の15節とも合致しているのです。あなたがしたように、あなたもされる。」そして 新約聖書ローマ人への手紙12章19節「復讐はわたしのすることである。私が報いをする。」とも完全に合致するのです。
 
そう、聖書の原典が教えている一番大切な事は、「人が誰かに成した行為はそのまま自分に返ってくる」と言う事なのです。人に善を行えばその人に善が帰り、悪を行えば悪が自分に返ってくると言うのです。

   ただし、注意して下さい。大切な事ですが聖書の原文は「行った行為が報いをもたらす。」と言っていない事です。「なそうとしている」と聖書の原文には在ります。と言う事はまだ思いだけで実際の行為に至っていない事が明白に記されています。
 
  そうなのです、聖書が問題にしているのは 「その人の行為」では無く、「なそうとしている = 意図」だというのです。聖書が教えているのは、確かに善行のようですが、へブル語やギリシャ語の聖書の原典がここで言っている事は、行為以上に大切な「心の動機や目的、意図」だと言う事です。そして神様が報われるのは、あくまでもその人の「心」に対してなのです。

参考URL http://bible.co.jp/bible/nt/goyaku.htm

イソップ寓話と為政者

 前回は、モーセの奥様が「日焼け顔」であったことをお話ししましたが、今日は同じ言葉で親しまれている方をご紹介したいと思います。そう、ほかでもない、イソップ寓話で有名なあの「イソップ」さんです。

  英語のイソップ寓話をご覧になっ方は綴りが Aesop になっているのに気づかれれた事でしょう。フランス語でもEsopeとなっています。原文はギリシャ語で Aισωποs(アイソオポス)と綴ります。そうモーセの奥様に使われていたのと全く同じ言葉の男性形なのです。イソップは起源前6世紀にに実在した人物でサモス人イアドモンの奴隷であったそうです。(ヘロドドス2巻134章)、そのギリシャ名は黒人を意味する言葉なのです。もちろん伝承にも彼が黒人であったと言われていますので、おそらくそうだったのでしょう。

  さて、今日はあまり知られていないイソップの寓話を皆様にご紹介しましょう。

  イソップ寓話は戦国時代にキリスト教の宣教師によって伊曾保物語として紹介され、すっかり日本語になってしまっています。しかし、原文はギリシャ語で記されておりプラトンがBC300年頃に口伝から編纂したと言われています。しかもこのギリシャ語は聖書と全く同じギリシャ語で記されているのです。

   岩波文庫には山本光雄氏や中務哲朗氏の全訳が在りますがどうも、ギリシャ語の原文に明記されている事が正確に訳出されていない様です。しかも、御両人とも子供向けの寓話と考えておられる為か、随分と短く、しかも意訳になっています。原文は決して子供の為に記された文章ではありません。立派な大人、しかも王や為政者、高級官僚、当時のギリシャポリスの職業軍人をいさめる為にかなり手厳しい批判を記しています。
 
   まあ、能書きはこれくらいにして日本にはあまり紹介されていない養蜂者(中勤氏の72、山本氏の235)をご紹介させて頂きます。
原文は以下の通りです。
  
ειs μελισσυργου τιs εισελθων, εκινου αποντοs, το τε μελι και τα κηρια υψειλετο. ο δε επανελθων, επειδη ηθεασατο ερημουs ταs κυψελαs, ειsτηκει ταυταs διερευνων. αι δε μελισσαι επανελθουσαι απο τηs νομηs, ωs κατελαβον αυτν, παιουσαι τοιs κεντροιs, τα πανδεινα διετιθεσαν. κακεινοs εψη προs αυταs ω κακιστα ζωα ,υμεισ τον μεν κλεψαντα υμων τα κηρια αθωον αψηκατε, εμε δε τον επιμελουμενον υμων δεινωs τυπτετε. ουτωs ενιοι των ανθρωπων δι αγνοιαν τουs εχθρουs μη ψυλαττομενοι, τουs ψιλουs ωs επιβουνται.

出来るだけこのギリシャ語の原文が意味している事を正確に翻訳して見ました。

「養蜂場を見つけた盗人が そこに置かれていた美味しそうな蜂蜜を蜂の巣毎盗んで行った。そうとは知らずに山の養蜂場へ昇ってきた養蜂者は空になった巣箱と蜂蜜がすっかり無くなっているのを見て驚きと落胆のあまり暫しその場に立ち尽くしていた。ようやく気を取り直して盗人の足跡を見定めていると丁度蜜蜂達が花々から集蜜を終えて次々と帰ってきた。蜜蜂たちは自分たちの家と折角蓄えた密がすっかり無くなっているのに気がついて動転し、そこにいた養蜂者が犯人だと決めつけて、次から次へとしつこくしかも集団で針を刺した。 あまりの痛さにたまりかねた養蜂者は、蜜蜂に向かって言い捨てた。『此の悪い畜生め お前らは 泥ボウ それもお前たちの家ごと盗んで行ったやつに復讐することを捨ておいて、こんなにお前らの事を案じているこの俺様をこんなにひどい仕打ちをしくさるのか!!』これと同じように、多くの人間は真実を知ろうとしないし、真に憎む者を監視しないで 愛してくれる者を悪者の様に思い込んで拒絶する。」