日焼け顔
十戒でよく知られたあのモーセの奥さんの顔が黒かったってご存じでしょうか? いずれの日本語訳にもクシュ人(民数記12章1節)と記されていますがこの箇所を紀元前3世紀にギリシャ語に翻訳したいわゆる70人訳ギリシャ語旧約聖書ではギリシャ語アイシオピセースとなっていて文字通り「日焼け顔」で褐色または黒色の皮膚を指しています。また聖書の別の箇所には「クシュ(=エチオピア)人がその皮膚の色を変える事が出来ようか」エレミヤ13章23節となっておいることから見ても間違いなさそうです。
そして、この事が原因でモーセが実の姉ミリヤム(英訳マリヤ)と実兄アロンに批判されて大問題になった様子が前述の旧約聖書民数記の12章に詳細に記されています。そしてその批判は単にモーセ婦人の事だけではなくモーセ当人の職業である「預言者」をも否定される結果を招きました。
洋の東西を問わずまた過去現在を問わず人種問題が在った事を教えられます。人が人を差別する。そしてそれを自分の価値観で行い、自分やその周りの人たちと違っている事が批判されると言う問題の本質はいつの時代も変わりません。
そしてこの解決は神様の直接の介入で皮肉な形で決着が着きました。姉ミリヤムに怒られたヤーウエの神が批判した姉のミリアムの皮膚全部を「雪の様に真っ白」にされると言う物でした。(民数記12章10節)それはこのパレスチナ地方の風土病である像皮病の一種で非常に強い伝染性をもち、しかも皮膚がかさぶたになって崩れ落ちそのあとが赤黒く醜いあばたと成る物でした。(民数記12章10節=へブル語の原文では「打たれた」と言う単語でギリシャ訳はレプラとなり此れが後代にライ病と訳されているが実際は別の病気です。) 人の顔が黒いからと批判した人が今度は自分が真っ白にされて人に忌み嫌われるという報復を受けたのです。
これは自分の価値観で人を評価し、自分を身びいきに過大評価している人に対する神様の警告では無いでしょうか。このミリヤムが本位とした顔の色による人間評価が間違っていたのは自明です。しかし此れが他の物になっても結果は同じではないでしょうか。たとえば、お金等の経済力や資産、教養や学歴、はたまた実績や実力などという自分の得意とする同類の他の価値観にすりかわっていてもその本位とする価値観が問題である事に何ら変わりは無いのではないでしょうか。この出来事はどのような物であっても、自己の価値観による他人や他社の評価が如何にでたらめな物であるのかを教えているかと思います。
あなたは一体どんな価値観で自分と他者を比較評価していますか? あなたはそんな評価のしかで世の中に通用すると思っていますか。まして、神様の前にそんな物が何程の意味を持っているのか考えた事が在りますか?
そして、この事が原因でモーセが実の姉ミリヤム(英訳マリヤ)と実兄アロンに批判されて大問題になった様子が前述の旧約聖書民数記の12章に詳細に記されています。そしてその批判は単にモーセ婦人の事だけではなくモーセ当人の職業である「預言者」をも否定される結果を招きました。
洋の東西を問わずまた過去現在を問わず人種問題が在った事を教えられます。人が人を差別する。そしてそれを自分の価値観で行い、自分やその周りの人たちと違っている事が批判されると言う問題の本質はいつの時代も変わりません。
そしてこの解決は神様の直接の介入で皮肉な形で決着が着きました。姉ミリヤムに怒られたヤーウエの神が批判した姉のミリアムの皮膚全部を「雪の様に真っ白」にされると言う物でした。(民数記12章10節)それはこのパレスチナ地方の風土病である像皮病の一種で非常に強い伝染性をもち、しかも皮膚がかさぶたになって崩れ落ちそのあとが赤黒く醜いあばたと成る物でした。(民数記12章10節=へブル語の原文では「打たれた」と言う単語でギリシャ訳はレプラとなり此れが後代にライ病と訳されているが実際は別の病気です。) 人の顔が黒いからと批判した人が今度は自分が真っ白にされて人に忌み嫌われるという報復を受けたのです。
これは自分の価値観で人を評価し、自分を身びいきに過大評価している人に対する神様の警告では無いでしょうか。このミリヤムが本位とした顔の色による人間評価が間違っていたのは自明です。しかし此れが他の物になっても結果は同じではないでしょうか。たとえば、お金等の経済力や資産、教養や学歴、はたまた実績や実力などという自分の得意とする同類の他の価値観にすりかわっていてもその本位とする価値観が問題である事に何ら変わりは無いのではないでしょうか。この出来事はどのような物であっても、自己の価値観による他人や他社の評価が如何にでたらめな物であるのかを教えているかと思います。
あなたは一体どんな価値観で自分と他者を比較評価していますか? あなたはそんな評価のしかで世の中に通用すると思っていますか。まして、神様の前にそんな物が何程の意味を持っているのか考えた事が在りますか?
はじめまして!
21歳の春に聖書を読み始め、面白くってとうとう35年間毎日読み続けてしまいました。いろいろな翻訳も読んでみましたが、やはり原典が一番です。ためしに翻訳との違いを一カ所ご紹介しましょう。
「真理がわれらを自由にする」
これは、国立国会図書館の目録ホール入り口に記されている言葉だそうです。出典は新約聖書ヨハネの福音書 8章32節で、そこにはキリストの言葉として記されています。この言葉は英訳もそのようになっているのですが、ギリシャ語の原文とは随分と様子が違うのです。(原文;Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)
原文を正確に翻訳すると、「その真実があなた方を奴隷開放する。」となっているのです。読み進めれば分かる事なのですが「真実」とはキリストご自身を指しており、「あなた方」はその時にエルサレムの神殿にいた信仰熱心なユダヤ人たちです。献金箱のある場所(ヨハネ8章20節)で語られていますので、平行記事にあたるルカの福音書(21章1節)の前後を見ると、その時の聴衆の中には、ユダヤ最高議会(当時のイスラエル国会)の議員達もいたことがわかります。するとこの言葉は、30歳そこそこのキリストが、現職の国会議員らを前にして「あなた方は奴隷だから私が奴隷解放してあげる」と言った事になります。ユダヤの信仰深い人々や現職国会議員にしてみれば「大変な侮辱」にあたる発言なのです。当然の事としてこのすぐ後、キリストは彼らによって処刑(十字架刑)される結果となるのです。
皮肉な事に、この言葉が2000年後の日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣であった初代館長金森徳次郎の筆跡で、国立国会図書館の玄関に刻まれているのです。本当に、この聖書の言葉が意味する事が正しく理解されて、その上で国会図書館の玄関に掲示されているならば良いのですが、実際どうなのでしょう? もし、何らかの誤解や無理解があって記されているなら大変お恥ずかしい事になるのでは無いでしょうか?
参考URL http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/shinri.html
「真理がわれらを自由にする」
これは、国立国会図書館の目録ホール入り口に記されている言葉だそうです。出典は新約聖書ヨハネの福音書 8章32節で、そこにはキリストの言葉として記されています。この言葉は英訳もそのようになっているのですが、ギリシャ語の原文とは随分と様子が違うのです。(原文;Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)
原文を正確に翻訳すると、「その真実があなた方を奴隷開放する。」となっているのです。読み進めれば分かる事なのですが「真実」とはキリストご自身を指しており、「あなた方」はその時にエルサレムの神殿にいた信仰熱心なユダヤ人たちです。献金箱のある場所(ヨハネ8章20節)で語られていますので、平行記事にあたるルカの福音書(21章1節)の前後を見ると、その時の聴衆の中には、ユダヤ最高議会(当時のイスラエル国会)の議員達もいたことがわかります。するとこの言葉は、30歳そこそこのキリストが、現職の国会議員らを前にして「あなた方は奴隷だから私が奴隷解放してあげる」と言った事になります。ユダヤの信仰深い人々や現職国会議員にしてみれば「大変な侮辱」にあたる発言なのです。当然の事としてこのすぐ後、キリストは彼らによって処刑(十字架刑)される結果となるのです。
皮肉な事に、この言葉が2000年後の日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣であった初代館長金森徳次郎の筆跡で、国立国会図書館の玄関に刻まれているのです。本当に、この聖書の言葉が意味する事が正しく理解されて、その上で国会図書館の玄関に掲示されているならば良いのですが、実際どうなのでしょう? もし、何らかの誤解や無理解があって記されているなら大変お恥ずかしい事になるのでは無いでしょうか?
参考URL http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/shinri.html