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さめとくじらの思考法

さめとくじらが考える

『不可触民』という本を読んだ。

 カースト制度の最下層民、ダリットについて書かれている。絵に描いたような差別。どこかで見たような侮蔑。どこか空想じみた現実……しかし、どこが空想じみてるんだ? いや、自分にとって、空想じみてるだけだ。自分の狭い意識の中だけで。


 なかなか厳しい本だ。背中からどんと突かれたような……。ときどき、こうして知らない世界を見る。どこかでは聞いたような気はしても、本当にそんなものがあるとは信じない、まさにアンタッチャブルな現実。知ってはいても、触れる機会はない。

 現代日本は、差別とはほぼ無縁に近い。異国の風土を受け入れないことはあっても、どっちがえらい、という簡単な片付け方はしない。これは、すばらしいことだろう。誰がそうしたのか、昔からそうだったのか、そこまではわからないが……。まあ、解放運動のことなどを考えると、やはり、長い月日の流れの果てに、ようやくこうなったのだろう。だからよけいにすばらしい。


 自分は、差別には特に批判的だ。

 これは幼い頃に手塚治虫の『ブッダ』ばかり読みふけっていたためだろう。あの漫画は釈迦の思想の中でも、カースト精度への批判が特に色濃く描かれている。深いことはよくわからないながらも、とにかく差別はだめだ、という意識がそこで刷り込まれたようだ。

 しかし、客観的にはいくらか過剰でもある。差別意識を持つ人に対して、侮蔑の念を抱いてしまう。これこそある種の差別かもしれない、と思うことがある。なかなか反省する機会はないが。


『不可触民』の話に戻ろう。

 この本の中で最も驚かされたのは、ダリットたちの中には、ガンジーに対し批判的な見方をするものが多いということだ。ガンジーは、カースト外に位置づけられていたダリットを、カースト内に入れようとしただけで、カースト制度そのものをリセットする気はなかったからだという。

 ガンジーの自伝に大変感動した自分なので、これは少し残念だった。あれほど偉大なガンジーにさえ、思想上の不足はあったということだ。

 しかしまあ、それは当然といえば当然かもしれない。どんな思想家にも、抜け落ちている部分はあるはずだ。思想は無意識とは戦えない。ガンジーがダリットの身分にあったとしたら、カーストはもっと違った観点から意識されていたことだろう。(もっとも、ガンジーがダリットだったら、あれほどの功績は成し遂げられなかっただろうが。)

 ガンジーがカースト制度の破壊ができなかったことを、そう嘆く必要はない。人には領分があるということだ。ある人にできないことは、また別の人がすればいい。人それぞれに役割がある。『ブッダ』にだって、そう書かれている。


 一人の天才に、すべてがたくされているわけではないというのは、考えようによってはありがたいことだ。どんな天才も、寿命を延ばすことはできない。いつかは死ぬ。手の届かないところが出てくる。それは、また別のものにたくさなければならないのだ。

 もし、音楽のすべての場を、ベートーヴェンという一人の天才が、独力のみで切り開かなければならなかったとしたら、音楽は今よりつまらないものになっただろう。どうしても、狭いものになっただろう。音楽はまるで宇宙のようだが、人が作り出すものは宇宙のようにはならない。無数の音楽家が星のように現れては消えることで、やっと夜空が輝き始める。