2017年9月1日(金)新宿ピカデリー
(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分) で、18:05~鑑賞。
作品データ :
製作年 2017年 製作国 日本 配給 東宝 アスミック・エース 上映時間 149分 石田三成と徳川家康を主人公に、豊臣秀吉の死から天下分け目の“関ヶ原の戦い”に至るまでの過程を描いた 司馬遼太郎の同名時代小説の映画化作品。監督・脚本は原田眞人、出演は岡田准一、役所広司、有村架純ら。
ストーリー :
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、戦乱の世に終止符を打ち、後の日本の在りようを決定づけた歴史的合戦“関ヶ原の戦い”は、わずか6時間で早々と決着がついた。圧倒的に有利と思われた石田三成(
岡田准一 )率いる西軍は、なぜ徳川家康(
役所広司 )率いる東軍に敗れたのか…?
幼くして豊臣秀吉(
滝藤賢一 )に才を認められ、秀吉の小姓となった石田三成。成長し大名にとりたてられた三成は、自分の石高の半分をもって、猛将として名を馳せた牢人・島左近(
平岳大 )を家来に乞う。秀吉に忠誠を誓いながらも、利害によって天下を治めることに疑問を感じ正義で世の中を変えようとする三成の姿に、左近は「天下悉く利に走るとき、ひとり逆しまに走るのは男として面白い」と配下に入る。伊賀の忍び・初芽(
有村架純 )も、“犬”として三成に仕えることになる。
秀吉の体調が思わしくない。天下取りの野望を抱く徳川家康は、秀吉の不興を買う小早川秀秋(
東出昌大 )や他の秀吉恩顧の武将たちを味方につけようと、言葉巧みに懐柔していく。三成はそんな家康が気にくわない。
慶長3(1598)年8月18日、秀吉逝去。翌慶長4(1599)年閏3月3日、大老・前田利家(
西岡德馬 )も亡くなると、先の朝鮮出兵時から三成に恨みを持つ福島正則(
音尾琢真 )、加藤清正(
松角洋平 )ら秀吉子飼いの七人党が、三成の屋敷を襲撃する。三成は家康の屋敷に駆け込み難を逃れるが、このことで佐和山城に蟄居することになる。
慶長5(1600)年6月、家康が上杉討伐に向かう。上杉家家老・直江兼続(
松山ケンイチ )と結託して家康の挟み撃ちを図っていた三成は、大谷刑部(
大場泰正 )らを引き込み、毛利輝元(
山崎清介 )を総大将に立て挙兵。三成の西軍、家康の東軍が、覇権をかけて動き出す。
慶長5(1600)年9月15日、決戦の地は関ヶ原
(美濃国不破郡関ヶ原〈現・岐阜県不破郡関ケ原町〉) 。三成はいかにして家康と世紀の合戦を戦うのか?そして、命懸けで三成を守る初芽との、許されない“愛”の行方は…。
権謀渦巻く中、「愛」と「正義」を貫き通す“純粋実直な武将”三成と「覇権(野望)」に燃える“老獪な狸ジジイ”家康の戦いが今、幕を開ける!
▼予告編
VIDEO ■
私感 :
そもそも私は、いつぐらいからか日本映画に多くを期待してはいけないと思い定めている。
とりわけ21世紀に入って、やたらとお粗末な邦画が目につくだけに期待するほうが間違っているのだ(cf.
本ブログ〈September 18, 2015〉 、
本ブログ〈October 02, 2015〉 、
本ブログ〈November 15, 2015〉 、
本ブログ〈August 28, 2017〉 )。
本作を、私はまあ、それなりに淡々と冷静に見続けることができた。途中で居眠りすることもなく、途中で退席することもなく…。しかし、見応え十分な佳作というには程遠い作品であること、これははっきりしている。
私は本作を鑑賞中、何度か思ったものだ。これは、
忍者映画 なのか、と。
※“忍者映画”と言えば、私が観た当の「忍者を題材とする映画作品」の最初は、監督:山本薩夫、主演:市川雷蔵 、原作:村山知義、配給:大映による『忍びの者 』である。それとの出会いは、1962年12月の公開時~私が生まれて初めて札幌から上京してまもなく~、たしか新宿歌舞伎町の映画館において、だった。 同作は、今までの印を切ってドンパッと消えたり、大蛇やがま蛙が出てくる興味本位の忍術映画 と違った、忍術のリアリズムと見事な演出で大ヒット。忍者ブームのきっかけを作った。63年から65年にかけて、東映は『忍者秘帖・梟の城』『江戸忍法帖・七つの影』『伊賀の影丸』『月影忍法帖・二十一の眼』『第三の忍者』『隠密剣士』『少年忍者・風のフジ丸』『忍者狩り』『くノ一化粧』『忍法忠臣蔵』、松竹も『忍法破り 必殺』『異聞猿飛佐助』と相次いで忍者映画を公開。 市川雷蔵主演の「忍びの者」シリーズは、都合8作製作された(公開:1962年12月~66年12月)。主人公は第3作までが石川五右衛門。第4・5作が霧隠才蔵、第6作がその子である才蔵二世、第7作が再び霧隠才蔵、第8作がオリジナル忍者・霞小次郎。闇に生き闇に死ぬ忍者のヒューマニティー。人の陰にいて自分の存在を意識させてはいけない人間が、歴史の流れに影響を与える面白さ。掟の絶対や組織の力などもきちっと描かれ、忍者の人間模様とアクション+頭脳プレーで、従来の忍術映画のイメージを見事に刷新した。市川雷蔵ファンの私は、同シリーズ8作をすべて公開直後に鑑賞。 戦
(いくさ) において、諜報活動が重要なことはよく分かる。まして天下分け目の大合戦ともなれば、情報戦を制することが死活にかかわる重大事だろう。
本作では、伊賀忍者たちの暗躍シーンが大写しされている。特に初芽
(はつめ) 、蛇白
(へびしろ) 、赤耳
(あかみみ) の3人が戦いの命運を握る重要な役回りを受け持っている。
ある事件で石田三成に命を救われた初芽(演者:
有村架純 )は、石田家の“犬”として尽くすうち、次第に三成の純粋さに惹かれていく“くノ一”。徳川家康のもとで重用される蛇白(
伊藤歩 )は、懐に白蛇を飼いならし、何事も非常にクレバーにこなす“くノ一”。一里先の音まで聞こえるという驚異の聴覚を持つ赤耳(
中嶋しゅう )は、三成と家康の双方を裏切りながら渡り歩く“老忍”。
問われるべきは、(蛇白=伊藤歩と赤耳=中嶋しゅうはともかく)ヒロイン役の初芽を演じた有村架純(1993~)のその演技ぶりである。
本作オフィシャルサイトの<イントロダクション>によれば(引用:http://wwwsp.sekigahara-movie.com/about/index.html )、「三成に仕える忍び・初芽には、今、最もオファーが絶えない女優 、有村架純。初の本格時代劇で、殺陣などのアクションにも挑戦している」…。 有村が扮する初芽は、肌が綺麗でふっくらして、童顔の美少女!一体全体、こんな“かわいこ
ちゃん”が女忍びとは?!そして案の定、その演技たるや、めりはりに欠ける凡庸なものであり、食い足りないことこの上ない。
私にとって有村=初芽の醸し出す雰囲気は、存在感のないアイドルの学芸会のそれだった。そこでは、彼女が登場するシーンが目に映るたびに、ややもすると戦国史上最大の合戦までのいきさつと複雑な人間関係の実体的基盤があえなく崩され、よってもって情報戦・駆け引きが何とも滑稽きわまる茶番と化し、あげくの果てに究極の合戦シーン自体も空疎で雑駁な絵空事と思い描かれてしまうのだった…。
本作では、初芽をはじめとする忍者たちの描写が偏重されている。この点、映画全体の尺との絡みで、どういう問題点が浮き彫りになるだろうか。
秀吉が薨去してから≪関ヶ原≫開戦にいたるまでの約2年間の過程について、約2時間半の尺で、その全側面を考慮するなどということは、事実上不可能である。
では、限られた尺で、≪関ヶ原≫を真っ向から描き出すために※、歴史的文脈上どうしても外せない、是が非でも見せ場にすべき重要シーンは何か。
※前出の本作公式サイト・イントロダクションは豪語する。「戦国史上最大の合戦〈関ヶ原の戦い〉。これまで映画、ドラマでは何度も取り上げられてきた天下分け目の決戦だが、真正面から戦い自体を描いたのは日本映画史上初めての挑戦 !」 大事な点は、当の戦い~日本を二分し、今なお“天下分け目の関ヶ原”と語られる、歴史の節目に当たる戦い~にいたる過程上の結節点となる重大事件(⇒歴史的な問題状況)を鋭意、映画の題材に選ぶことである。当の歴史的事件は、≪関ヶ原≫の何たるかをぎりぎりに突き詰めるとき、おのずから最低限、次のようなものに特定されるだろう。
(1)
「直江状」→「会津征伐」 の問題
「直江状
(なおえじょう) 」とは、秀吉没後、家康への恭順の意を示さず、反抗的だった五大老の一人・上杉景勝(陸奥若松城主)を糾問した家康に対して、慶長5(1600)年4月、上杉氏の家老・直江兼続(1560~1620)が送った返答の書簡。兼続は挑戦的な態度で家康を非難!「当国の儀、其の元に於て種々雑説申すに付、内府〈家康〉様御不審の由、尤も余儀なき儀に候」…。
この「直江状」を読んだ家康は激怒し、会津の上杉討伐を決意したと言われている。「会津征伐」では、徳川軍と上杉軍が直接対決することは無かったが、この機をねらった三成を筆頭とする反家康派が挙兵、≪関ヶ原≫につながっていく。
(2)
「小山評定」 の問題
「小山評定
(おやまひょうじょう) 」とは、慶長5年7月25日、会津の上杉討伐のために下野国小山(現在の栃木県小山市)に来た家康が、三成挙兵の報を受け、諸武将を集めて今後の方針を諮った軍議。各武将が家康に従うことを誓約し、≪関ケ原≫に臨むことを決めたとされる。
cf.
「開運のまち おやま」 小山市(OYAMA CITY)ホームページ (3)
「伏見城の戦い」と「岐阜城の戦い」 の問題
「伏見城の戦い」(山城国)も「岐阜城の戦い」(美濃国)も≪関ヶ原≫の前哨戦。前者は慶長5年7月18日~8月1日に行なわれ、西軍(三成側)が勝利し、後者は慶長5年8月22~23日に行なわれ、東軍(家康側)が勝利する。
前哨戦と言えば、≪関ヶ原≫本戦前、全国の大名が東西に分かれてあちこちで合戦が起きている。「伏見城の戦い」→「岐阜城の戦い」は、群雄割拠の戦国時代が変わり、「家康と三成のどちらに付くか」をめぐって動き出した状況を端的に象徴する東西攻防戦である。
(4)
「島津の退き口」 の問題
≪関ヶ原≫に西軍として65歳で参戦した薩摩の猛将・島津義弘(1535~1619)は、合戦の最後、東軍の大勢力に包囲される。この存亡の瀬戸際で決行された驚愕の、敵中(正面)突破退却戦が、島津義弘の名を歴史に刻んだ「島津の退き口
(のきぐち) 」である。島津軍は退却時の敵陣突破の手段として、「捨て奸
(すてがまり) 」と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
cf.①
島津義弘軍の奇跡の退却劇 (⇒≪関ヶ原≫戦線下の屈指の見どころ) : 「関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数 で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。 高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは僅かに80余名 であった。」(『ウィキペディア日本語版』「捨て奸」2017年9月11日閲覧 ) cf.②
NHKテレビ「関ヶ原の戦い、決死の敵中突破 ~戦国の猛将 島津義弘、決断の時~」(「その時歴史が動いた」2002年10月23日) : VIDEO 本作ではストーリーの展開上、以上(1)(2)(3)(4)で指摘された重大事件が何らかの形で取り上げられただろうか。なるほど(1)については、家康が会津征伐に乗り出すところが~「直江状」は没~かろうじて描かれはしたが、(2)(3)(4)にいたっては何と全てスルー!
肝に銘ずべきだろう。≪関ヶ原≫を≪関ヶ原≫たらしめる当のものを等閑視して、≪関ヶ原≫そのものを語る資格は一切ない、と。
≪関ヶ原≫映画として譲ってはならない一線がある。なるほど、実情に即して腹蔵なく言えば、全体の尺の都合で、(3)の【≪関ヶ原≫の前哨戦シーン】と(4)の【≪関ヶ原≫の西軍敗走シーン】をやむなく割愛した場合なら、まだ何とか≪関ヶ原≫映画の体裁を保つことだろう。しかし、(2)の「小山評定」ともなれば、話は別だ。
徳川家康、秀忠父子をはじめ、本多正信、本多忠勝、井伊直政ら徳川の家臣たち、福島正則、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮、山内一豊ら、28武将が参集した「小山評定」。諸将の思惑が入り乱れながらも、家康が練りに練って仕切った「小山軍議」は、
その後の歴史の方向性を決定づけた意思決定 としてあだや疎
(おろそ) かにできない、特筆すべき歴史的事件である。「天下分け目の関ヶ原の戦い」とは言い条、実は「
天下分け目の小山評定 」にほかならなかった。