シリーズ
前回の記事では、「変えようとする前に、ただ観察する」という心構えについて書きました。
実践しているうちに、少し不思議な感覚に出会う人もいるかもしれません。
・思考は浮かんでいるのに、
・感情も確かにあるのに、
・「それを抱えている私」が、どこにも見当たらない。
そんなとき、ふと
「自分がなくなったような感じがする」
と表現したくなることがあります。
この感覚は、脱フュージョンや「変えようとしない」、「観察する自己」を実践する中で、到達する感覚のようです。
今回は、この感覚について、
仏教で語られてきた「無我」という考え方や、
バイロン・ケイティが、ひどいウツ状態から抜けたときに体験した感覚を手がかりに、
少し整理してみたいと思います。
仏教で語られる「無我」とは何か
「無我」は、仏教の中心的な教えの一つです。
といっても、「自分は存在しない」と主張する思想ではありません。
仏教でいう無我とは、
固定された実体としての「私」は見つからない、
という洞察を指しています。
私たちは普段、
といっても、「自分は存在しない」と主張する思想ではありません。
仏教でいう無我とは、
固定された実体としての「私」は見つからない、
という洞察を指しています。
私たちは普段、
- これは私の考え
- これは私の感情
- これが私の性格
というように、 さまざまな体験を「私」に結びつけています。
けれど、よく観察してみると、
- 思考は勝手に浮かび、消えていく
- 感情も、条件によって自然に変化する
- それらを統括している中心は、はっきりとは見当たらない
無我とは、体験が消えることではなく、
体験を「私だ」と掴んでいた前提が崩れることに近いように感じます。
バイロン・ケイティの「私がなくなった」体験
こうした文脈で理解すると、少し現実味を帯びてきます。
彼女は長年、 強い苦しみと、ひどいウツ状態の中にいました。
ベッドから起き上がることすら難しい日々だったといいます。
そして、ある朝、 その状態からふっと抜けたときに、
私という存在が、見当たらなくなっていた
と語っています。
ただし、人格が消えたわけでも、
人生が止まったわけでもありません。
思考は浮かぶし、感情もあるし、
日常生活も、普通に続いていきます。
けれど、
- 思考を「私」だと信じていない
- 人生を必死にコントロールしている主体が見当たらない
そんな感覚が、とても自然なものとして残ったそうです。
これは特別な覚醒体験というより、
苦しみのど真ん中で、思考との同一化がほどけた結果
と見ることもできるのではないでしょうか。
「自分がなくなる」の正体
ここで大切なのは、
「自分をなくそう」としないことです。
無我も、 バイロン・ケイティの体験も、
何かを消し去る努力の結果ではありません。
実際に起きているのは、
- 思考を、以前ほど信じなくなった
- 「私はこういう人間だ」という物語が、絶対ではなくなった
- 観察する視点だけが、静かに残っている
という、とても地味で、目立たない変化です。
前回書いた脱フュージョンが、さらに深まった結果として、
「私が薄くなったように感じる」
その程度のことなのかもしれません。
自分で実践するときのコツ
① 無我を目標にしない
「無我になりたい」
「自分をなくしたい」
そう思った瞬間、
それを目指している「私」が、
しっかり生まれてしまいます。
何も起きなくていい。
特別な感覚がなくても、問題ありません。
② 思考を疑う前に、距離をとる
思考を否定しなくていいし、
正しいかどうかを判断しなくていい。
ただ、
「ああ、いまこんな考えが出ているな」
そう気づいている視点に、
少しだけ重心を移してみる。
それだけで、
思考とあなたの間には、
わずかな余白が生まれます。
③ 分からなさを、そのままにする
「これは無我なのか?」
「ちゃんとできているのか?」
分からなくて大丈夫です。
その分からなさ自体も、
観察の対象になります。
答えを出そうとしないことが、
結果的に、いちばん深い実践になることもあります。
何も足さなくていい
無我は、新しい状態を獲得する話ではありません。
何かを足すのではなく、
何かを信じるのを、少しやめる。
すると、 もともとあった
「観察している視点」だけが、
自然と前に出てきます。
変えようとしなくていい。
悟ろうとしなくていい。
ただ、いま起きていることを、
そのまま見てみる。
その積み重ねが、
気づけば、
自分との関係を、
とても静かで、やさしいものに変えているのかもしれません。
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