仏教の中に、我執(がしゅう)という言葉があります。
文字通り、自分に執着する心です。
これにより、人は孤独を感じやすくなり、苦しみを増やしていきます。
アドラーが、幸せを感じる感覚として挙げた「共同体感覚」から、離れていく心のように思います。
我執というのは、自分にこだわる心です。
仏教では、執着の一つとして諫めます。
我執は以下のような考えを生みます。
- 私は、xxな人だ!
- 私は、他人とは xxが違う
- 私の為に。他人に勝つ。
- 私は、なんのためにいるのか?
このような考え方は、他人を異質なものとか、脅威ととらえることにつながっていきます。
これによって、私は孤独を感じやすくなるのです。
仏教では、諸法無我(しょほうむが)といって「一つで成り立つものはない」と教えます。
相手がいなければ、自分はありません。
私を意識するのは相手を意識しているからです。
相手に対する意識・疑い・恐れが強くなればなるほど、自分へのこだわりが強くなっていきます。
逆も言えます。自分へのこだわりが強くなればなるほど、他人への警戒心が強くなっていきます。
対人恐怖症や社交不安障害には、この我執が大きく関係します。
我執から解かれると、周囲の人の善意にきづきやすくなり、孤独を感じることも少なくなります。
感じかたの違いだけではなく、人間関係も良くなります。
諸法無我の考えは、人は多くの要素で成り立っていることも教えます。
五蘊(ごうん)と言います。
- 色(しき):肉体
- 受(じゅ):感覚、受け取り方
- 想(そう):考え方、想像力
- 行(ぎょう):衝動、行動
- 識(しき):判断、価値基準
これらが少し変わっても、私は変わりません。
山田さんの性格が少し変わっても、山田さんは山田さんです。
そして、私たちはいつも変化しています。
色(肉体)は常に老います。
識(判断)は、それまでの経験や状況によって変わります。
本来は私たちは変わっていくものですし、変わってよいのです。
それを「私は xxだ!」と変化を拒むと、現実にうまく合わせることができなくなります。
慈悲の瞑想というのがあります。
自分の幸せを祈るところから始まって、嫌いな人の幸せも祈るものです。
これによって、心が落ち着いてくるというものです。
- 慈悲の瞑想(簡略化された一般的なもの)
https://j-theravada.net/world/metta/ - フルバージョン:
https://j-theravada.net/world/metta-full/
以前から知っていましたが、どこか偽善的な感じがして、あまり興味が向きませんでした。
煩悩を知ったり、他の心理療法の知識をしった今は、やはり自分の心を豊かにするためのものように感じます。
慈悲の瞑想を偽善的に感じるのは、我執の表れなのかもしれません。
フルバージョンを改めて読むと、感動似た思いが湧いてきます。
