当事者研究では「自己対処」という課題解消スキルを活用します。
問題だと思っていた苦しみを「課題」へと意味付けを代えます。
そして課題解消スキルとしての「自己対処」の技をアイデアとして出し合います。
「なつひさお」「たなかやすお」であったり(食べるという対処が意外と症状の苦労によく効きます)、サトラレサイン(人に知られてしまうという症状の苦労は人にサインを出して知らせると何故か安心感を生みます)であったり、はたまた、幻聴さんを確認する為にICレコーダーで録音して聞き返してみたり、といった実験精神の宝庫が自己対処です。
では、何でも自分次第ということでしょうか?
そう決めつける為のものではない、ということを今回は書きたいと思います。
そうです、問題の原因を個人内部に帰着させているわけではありません。
そして、せっかく「課題」として立ちのぼった課題自体の社会的問題に対する意識は忘れてはいけないのです。
自己対処というスキルを大いに活用する意図は、自己の自己へのコントロール力を再認識するためです。自分が自分のことを守れるという宣言である、主権回復の意義があるのです。
当事者が自分の主人公として主権回復を宣言していくことは、古い精神医療を行う支援者には脅威であるかもしれませんが、エンパワメントやセルフヘルプやリカバリーといった用語を生み出して来た当事者活動の歴史の上では自然と理解できると思います。
また当事者研究では、自己対処と同じように「課題」自体もまた尊重されるものであるのです。課題を独り占めしないというわきまえがその尊重です。
課題を、自分自身で仲間と共に、囲むことは、とても社会的な活動なのです。
自分自身だけのものにしないで、周りに発信することで、課題が社会化します。
そのグループ内での社会化は、自己対処スキルと共に伝播することによって、更に広い範囲で課題の社会化になっていくのです。
これらの日々の行いは、病者の体験を共有財産としての経験と立ちのぼらせるだけではなく、病者の文化を作り上げてゆく連綿と続く営みであると思います。
当事者研究は当事者のみの行いではないという意識を常に感じさせてくれる場面が、課題を出すときや自己対処を募集するとき、と私は感じます。
当事者研究は、既存の社会へ向けた野望に近いような、変革の意義を「課題」と「自己対処」に込めていると、私は考えています。
(katsuko.)