パーマ屋の娘が一番最初にお金の計算を覚えたのは
たぶん「ふくや」という駄菓子屋だろうと思う。
食べると口が真っ赤になる酢大根や何でできているかはわからないが黄色や緑やピンクに染まったヨーグルトが試験管のようなガラス瓶に入った物。
ビニールの長い管に入ったピンクや緑の甘い寒天。
10円で釘をくるっと回して止まったところの数だけもらえるソース煎餅などなど
今考えると怪しい食べ物がたくさんあった。
怪しい駄菓子がたくさんおいてある棚の向こうにお好み焼きの台があった。
お好み焼きの台は一台で丸イスが5脚か6脚置いてあった。
パーマ屋の娘や彼女の友人たちはあくまでも「お好み焼き」といっていたがどうもシンプルな「もんじゃ焼き」と思った方が正しいようだ。
小麦粉を水で薄く溶いたものを鉄板の上に流し小さなコテで取り、醤油をつけて食べた。
カリカリになるまで焼いてお煎餅といって食べたりした。
家で作ってもらうお好み焼きはフライパンで母が作ってくれる事が多かった。
「ふくや」では小さな器に1人前ずつ入れられたタネ、小皿に少しだけ入れられた醤油、自分だけで使う小さなコテ、ちょっと大人のお客さんみたいで誇らしかった。
香ばしい香りが小麦粉を溶いただけの物とはとても信じられないくらいおいしかった。
中には青海苔やサキイカをトッピングできる物も有ったが
パーマ屋の娘は高いのでいつも「素」だけ。それが確か10円。
トッピングが5円か10円。だがその上があった。
卵にお砂糖を入れてソースを付けて食べる「たまご」20円である。
パーマ屋の娘はお客さんに小遣いを貰った時など特別な時だけ「たまご」を注文した。
「たまご」には威力が有って、もんじゃ1つでグズグズ時間を取っているような子供は
「たまご焼くから早くして」というと鉄板の場所を空けてくれた。
良くかき回した卵をティースプーンで少しづつ鉄板に流し小さな丸を幾つか作ってプツプツと穴が開いたら焼き上がり。
小さなコテで小皿に分けて貰ったソースをちょっと付けて食べる。
甘い卵の味がソースと良くあって子供の大ご馳走だ。
機嫌のいい時は気に入った友達にもご相伴させた。
小遣いの少ないときにはもちろん「たまご」に場所をゆずった。
子供なりの処世術を身につける悲しい場所でもあったようだ。
 こんなに楽しく勉強にもなった「ふくや」であったが大人たちみんなに評判がいいわけでは無かった。
パーマ屋の娘の母親でさえ口を真っ赤にして帰ると
「ふくやに行くならお小遣いをあげない」と怒られた。
そんな時パーマ屋の娘はほとぼりが冷めるのを静かに待ってはこそこそと出かけて行き堂々と「たまご」を注文した。
 
今の地蔵通りには子供がこんな勉強できる場所は無いと思う。
ちょっと前まではプラモデルを作ったり直したりを教えてくれるお店が有ったりもしたが女の子には今一評判が良くない、というよりも女の子は寄りつかなかった。
そんなお店も今はおもちゃの販売だけをするようになってしまった。
 「ふくや」は子供の社交場であったし、「ふくやのおばさん」は先生であった。
小さい子には優しく大きい子の言うことを聞くようにいつも言われた。

しかし、大好きだった「ふくや」に高学年になると行かなくなった。
「ふくや」のお菓子ではお腹が一杯にならなくなったような気がしたから。
そうじゃない 小さい子と一緒にあのお好み焼きの台に座るのが
恥ずかしくなったから。
そのうち「ふくや」は戸が閉まったままになり閉店した。
「ふくやのおばさん」にはそれからも時々町で出会ったりするがいつまでも、
どんなにパーマ屋の娘が大人になってからもパーマ屋が無くなってからも
「パーマ屋の子よね。おかあさん元気?」と挨拶される。
昔、自分を良く見ていてくれた大人に会うのはちょっと気恥ずかしい。
でも 巣鴨には そんな 大大人が まだまだ たくさん いる。

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パーマ屋の近くに泰山(たいざん)という中華そばやがあった。
真っ赤な装飾の派手な店で中国人のおばさんが
つるつるの生地で出来た中国服を着て店を切り盛りしていた。
おばさんは痩せてちりちりにパーマを掛けコントで日本人が
中国の人のまねをするしゃべり方そのままでしゃべった。
「せちゃん今日もラーメンか?せちゃんラーメン好きあるねー」てな調子だ。
パーマ屋の娘は自分の家が忙しい時に泰山のラーメンをねだった。
母親達もたいていは直ぐ承諾してくれた。
泰山なら近いし、娘がお金を持たなくてもツケで食べさせてくれるからだ。
 壁には中国の美人画が飾ってあってそこに描かれたお姉さんが妙に美しく艶かしく
パーマ屋の娘は中国人は皆美人だと思い込んでいた。
泰山のラーメンは70円でとてもおいしかった。
醤油味でチャシューが一枚とシナチクとナルトがはいっていた。
時々チャーシューが余計に入っていたりする。
おじさんが機嫌が良いかお兄さんが作った時だ。
パーマ屋の娘が1人で店に行くと50円にまけてくれたりジュースがついたりした。
泰山は中華料理屋だったのだからもっと他の料理もあったのだろうけれど、
パーマ屋の娘はラーメンとワンタンしか覚えていない。
今でもパーマ屋の娘と母親は
「あのラーメンはおいしかった。今まで食べたラーメンのなかでも一番おしかった」と
思い出す。
 ある日、泰山は閉店した。
理由はもっと立地のいい場所に店を出すことになったからだった。
確かにあのころの地蔵通りは近所の人がたまに泰山を利用するくらいで
小さな泰山の店内が満員になることは余りなかったろう。
パーマ屋の娘が覚えている限りでは満員で待たされたり、
断られたことは一度も無かったと思う。
あれから 数十年がたった。
地蔵通りの人通りたるや 平日でも ちょっとした田舎のお祭りくらいの人出は
あたりまえだ。
近頃の地蔵通りの食堂やレストランは縁日や日曜日で無くても結構満員だったりする。
きっと今ごろどこかで泰山のおばさんは地蔵通りの人混みを見て速まったと思っているに違いない。
と パーマ屋の娘は 思っている。
 

 シーズン関係なしの普段の楽しみは映画館に連れていってもらう事。
地蔵通りにも昔は映画館があった。
地蔵通りの中ほどの薬屋の角を入った右側に100人入ったら
一杯になりそうな映画館があった。
(絶対もっと 沢山の人が入っていたに違いない)
もう一件は地蔵通りのおしまの庚申塚通りを左へいった左側にあった。

パーマ屋の娘は彼女の祖母に地蔵通りの中央にあった
「巣鴨東映」という映画館に良く連れていってもらった。
子守を頼まれた祖母は娘が映画を見せているとおとなしいので
良く映画館に連れ出した。
おまけに都合良く娘は無料で入れる年だった。
当時はまだ家庭にテレビは普及しておらず駅前に街頭テレビがあり
力道山のプロレスに勤め帰りのサラリーマンが群がっていた時代だった。
そんな時代、その映画館では夏休みには子供向けの漫画映画も掛かったが
ほとんどが大人向けの映画それもチャンバラばかりだった。
丹下左膳 とか月形半兵太とか美空ひばりが町娘になったり
お姫様になったりするストーリーとか。
市川右太衛門のファンになったパーマ屋の娘は子供にしては渋い好みって言われた。
それでも娘は映画が好きでそして「もぎり」のお姉ちゃんに憧れた。
なんで「もぎり」のお姉ちゃんだったのか定かでないが、
確かちょっと色白で美人だったようなきがする。
そのお姉ちゃんが切符をチェックするのが偉そうでかっこよかったからだと思う。
映画館の楽しみのもう一つは場内を回ってくるお菓子売りのおにいちゃん。
内側にトタンを張った箱にドライアイスとアイスクリームを入れて売り歩くおじさんと
それこそ
「おせんにキャラメル、ジュースはいかがですか」と言って首からかけた四角い箱に
お菓子やジュースを入れて場内を売り歩くお兄さんがいたのだ。
キャラメルや酢昆布などが入った箱、
小さな紙の袋に入ったビスケットや煎餅を祖母にかってもらうのが楽しみだった。
なんだか怪しい銘柄のジュースも箱の中にあったがそれは買ってもらえなかった。
時々近所の商店の人が昼間からさぼっていることもあった。
その映画館があった頃はまだお店の店員さん達は1ヵ月に4回、
つまり定休日や日曜日が全部休みというわけではなく、
店の都合に左右されていた。
10日ごとに1日と月3回の不定期かが休みだった。
だから時々のサボりは大目にみる店もあったようだ。
そんな店員さんや店主を見つけるとパーマ屋の娘は
「いいつけちゃうよ」と脅しを掛けては
高くて祖母には買ってもらえないアイスクリームをせしめた。
もちろん言いつけられてもかまわないのだが
パーマ屋の娘につきあってくれたに違いない。
 映画はどんな物を見せられたのか良く覚えていない。
でも石原裕次郎と美空ひばりが多かったのは覚えている。
祖母がすきだったのだと思う。
他の映画のほとんどがチャンバラばかりだった。
そのうち映画館にいかなくなった。
祖母が年を取りすぎたせだと思っていたが最近になって
当時の話しをしていくうちに気が付いた。
「東映映画」から「日活映画」に変わったのだ。
その結果、ピンク映画が上映されるようになり
パーマ屋の娘たちの見る映画はかからなくなった。
それが映画館にいかなくなった原因だ。
そんな思い出のある映画館も25年前に取り壊され
今は、公園になっている。