磯子村の土丹岩

港の防衛拠点「神奈川台場」の築造に、

磯子村の土丹岩を使用


神奈川台場は、江戸幕府が来航する外国船に対する防衛と監視のために築いた大砲14門を備えた砲台で港の守りを担っていました。


設計は勝海舟、施行は松山藩で約7万両の費用をかけ約1年の工期を経て万延元(1860)年に竣工。総面積約26干㎡(8千坪)、神奈川宿の沖合い約200mのところを埋め立てるため各地から石材が運ばれました。当時としては大変な工事で、集められた労働者は1年間に述べ30万人だったといわれています。ところでその石材の中に「磯子村の土丹岩が使われていた」と神奈川新聞に次のように記されています。(抜粋)


《武蔵国久良岐郡磯子村と森村の住民により、近くの山から大量の土丹岩と呼ばれる石材が切り出され、神奈川台場の築造に使用された。切り出し場所は磯子村の農民が所有する山(旧プリンスホテルのあったところ)で、一間(1.8)四方の塊に切り出された土丹岩は、磯子村の海岸から船で神奈川宿に送られた。


土丹岩は粘土質の土塊で海岸の埋め立てに使われ、下請けの農民たちは元受業者から千両近い切り出し料を受け取ったといわれている。磯子村の堤磯右衛門は、「関東各地から労働者を集め、江戸内湾や相模湾の漁村から土丹岩を運ぶための漁船をチャーターした」と述べているが、台場築造という公共工事は土丹岩の供給地や運送業者の居住する地域の経済を活性化させていた。》砲台は、明治32年に廃止されるまでは、外交儀礼のための礼砲として使われていましたが、台場は大正10年頃から埋め立てられ、現在では周囲に家が立ち並び、貨物用の線路が何本も走り、目の前には高層マンションが聳え、かっての面影は全くありませんが、僅かに残された石垣の一部が当時をしのばせています。


神奈川台場の跡地は開港150周年を契機に、横浜市では市内に造られた唯一の台場を保存活用の検討材料として発掘調査を進めています。


遺構が残された場所は神奈川台場公園の近く、1950年初め平沼市長時代に建てられた台場跡の碑と案内板が目印、JR東神奈川駅又は京急仲木戸駅から徒歩約10分の所にあります。散策してみてはいかがでしょう。