屏風ヶ浦
800余年の歴史を刻む、屏風ヶ浦 


源頼朝は海からの絶景を「屏風のようだ!」と、絶賛したと言う。
屏風ヶ浦という名前の元をたどれば、鎌倉時代に源頼朝が名付けたといわれ、その説を「屏風浦物語」では次のように記しています。(要旨)
建久3(1192)年、源頼朝が鎌倉に幕府を開きましたが、当時、金沢は江戸湾に面した漁村で鎌倉との交流があり、頼朝もしばしば、
金沢から富岡、杉田の沖を船で遊んだといわれています。

頼朝は、波静かな磯子の浜辺にそそり立つ断崖が、屏風を立てたように続く絶景を大変気に入り、家来に、「屏風のある浦(浦は陸地が入り込んで波の静かな所)に行きたい」と命じたことから「屏風ヶ浦」と呼ばれるようになりました。

東漸寺には鎌倉時代に刻まれた詩板に、山水の美観を「石塀」と詠んでいる詩が残されており、また江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎は「杉田村観梅記」にその美しさを錦屏風と表現、その頃から杉田梅林が関東一円の名勝となったのも、屏風ヶ浦の景観があったからといわれています。


昭和2(1927)年、久良岐郡屏風浦村は横浜市に編入され、区割がしかれて磯子区森町、中原町、杉田町となり、地図上の地名からは「屏風浦」は消えてしまいました。今、丘陵地には住宅が建ち並び、浦は昭和34(1959)年頃からの埋立てで、昔日の面影は全くありませんが、「屏風浦(屏風ヶ浦)」の名は、地域名、小学校名、駅名、道路名などに残されています。

現在、磯子区は大きく「10地区」に分けられ、その地区の中に「屏風ヶ浦」があり、その名を残しつつ、地域が一体となって、「まちのなかの緑を大切にし、安全で潤いのある住み良いまちづくり」を目指しています。


ところで、地域名では「屏風ヶ浦」と「ヶ」の字を入れているのに、私の母校「屏風浦小学校」には「ヶ」がありません。昭和31(1956)年の開校時、学校名を付けるときに、「子供たちにケガがないように」というわけで

「ヶ」を外したとのこと、ちょっと興味をひくエピソードですね。