První pražská defenestrace 2019 - Prague City Line
チェコの
「第一次プラハ窓外投擲事件600周年記念行事」(7月30日)
が迫って参りました。
どういった事件なのか?以下の記事から引用します。
プラハ窓外人間突き落とし事件(Pražská defenestrace)
1415年、宗教改革の先駆者である
ヤン・フス(Jan Hus)が火刑に処せられ、
ボヘミア人達が猛烈に抗議しました。
Wikipediaによれば、むしろそれよりも、
ヤコウベク・ゼ・ストシーブラ(Jakoubek ze Stříbra, 1375-1429)
が始めた、「両形色拝領」
(聖体と看做したパンを血と看做した葡萄酒に浸して食す聖餐の儀式)
が問題となったとのこと。
どういう事かというと、
カトリック教会による俗人の拝領は聖体であるパンで充分
という考えと対立するからとの事。
それに対し、カトリック教会が『聖務停止』(Interdictum)で応じました。
1419年、国王ヴァーツラフ4世(Václav IV)は、
ローマ・カトリック教会との和解策を探り、
その甲斐あってプラハの殆ど全ての教会を
カトリック教会に復帰させる事になりましたが、
フス派優勢の新市街参事会を解散した後、
カトリック信徒だけの新しい新市街参事会を組織したため、
これに憤ったフス派勢力は、プラハ市庁舎を襲撃し、
ドイツ人市長や市参事会員らを窓の外へ突き落としたとの事。
下では武器を持った民衆が待ち構えており、
逃れる術は無かったようです。
これが、『第一次プラハ窓外投擲事件』です。
この話を聞いたヴァーツラフ4世は、ショック死してしまったという。
数年前、この記念祭に合わせて
チェコ旅行でもしようかなと思っていましたが、
あっと言う間にその日が迫って参りまして、
最近も色々とやる事があり、結局は行かれなくなりました。
せめて、ブログで紹介するくらいはいたします。
Třetí pražská defenestrace 23. května 1618 – PhDr. Vladimír Rozhon | REGIONZAPAD.CZ
Pražská defenestrace - Pavel Kosatík
実は昨年(2018年)5月23日には、
1618年発生の窓外投擲事件400周年記念行事も行われたうえに、
パヴェル・コサチーク(Pavel Kosatík)が物語を、
ヴォイチェフ・シェダ(Vojtěch Šeda)が漫画を担当して
漫画化も行われました。
同事件についても先程のリンク先の記事を引用します。
1617年、ハプスブルク家出身の、
熱烈なカトリック教徒で対プロテスタント強硬派の
フェルディナント(Ferdinand)(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)が
ボヘミア王に即位し、プロテスタントを迫害する政策を実行しようとした事に
プロテスタントのボヘミア貴族たちが猛反発。
彼を王として認めず、対立が深まっている最中の1618年、
憤った民衆によって国王顧問官2名と書記の3名が
窓から突き落とされる事件が発生。
これが、『第二次プラハ窓外投擲事件』です。
実は、突き落とされた5人の内3名は命を取りとめ、
フェルディナントのいるウィーンへ逃れ、プラハでの反乱を報告。
カトリック対プロテスタントの30年戦争(1618-1648年)
の切っ掛けとなりました。
プロテスタント側は、1620年のビーラー・ホラ(白山)の戦いで破れ、
処刑、財産没収、国外追放等の重い処分を受け、
それに対する反発によって
1648年まで度々戦争が頻発、国土が荒廃してしまいました。
ハプスブルク家のチェコ支配が更に強まり、
18-19世紀の民族主義運動勃興まで、
チェコの暗黒時代が続く事になりました。
実は、1483年にも窓外投擲事件が発生しているそうなのですが、
余り知られていない、というか、
日本語版Wikipediaには出ていないため、
日本では1618年発生の事件を「第二次」とし、
1948年発生の事件を「第三次」としているのに対し、
チェコでは1483年発生の事件を「第二次」とし、
1618年発生の事件を「第三次」とする見方と、
1483年発生の事件を飛ばして
1618年発生の事件を「第二次」とする見方とある様です。
Pražská defenestrace - Wikipedia
1483年発生の事件について詳細を翻訳して紹介したい所ですが、
今気力が全くありませんのでいつか調べられれば、と思います。
1948年発生の事件についても引用いたします。
1948年に、チェコスロヴァキアの外相、
ヤン・マサリク(Jan Masaryk)が、
外務省の中庭で転落死体で発見されました。
初期の調査では”自殺”と発表されましたが、
彼の死には不自然な点が多く、1990年代以降は、
共産主義者によって窓から突き落とされたのではないか?
との説が有力視されているそうです。
彼は、共産主義政権成立後も外務大臣を留任していましたが、
その政権との関係に苦慮していたと言われています。
マサリクが殺害されたと見る人は、
この事件を『第三次プラハ窓外投擲事件』
と呼んでいるそうです。
1483年のも含めて「第四次」と見る向きもあるそうです。
ちなみに、私は日本語の呼び名について気になる所がありました。
私は最初、「投擲事件」と呼ぶのはまるで爆弾を投げるみたいだと思って、
分かりやすく「放り落とし事件」と呼んでいましたが、
後に周知化している「投擲事件」を受け入れました。
しかし、Wikipediaでは最近、
「放出事件」「放擲事件」という表記に代わっていました。
Wikipediaの編集者も、私と同じ様な疑問を抱いたのかも知れません。
そんなわけで、今回は珍しく物騒な事件のご紹介でした。