その一瞬にやっぱり意味はあったんだ! | マイプレシャスのブログ

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ヨゼフのつぶやき

ゴールデンウィークに
「リーディング」
そして「祈り」
と言う白鳥哲監督
の映画を観てきました。

今この映画を見れてよかった。

今を生きる私たちの
目に見えないけれども
本来私たちが見えていたもの
そして遠ざかったものへ対する

「戻る」道筋は思ったよりも
シンプル。それを怪しいとか
科学的根拠のないと動かない。
いや、動けない。

科学的根拠よりも
自分の身体的感覚や
外部の刺激から
距離を置いて自分の内面から
聞こえる心の声に
耳を済ませる事は

ギャンブルでもない。

そして決して「自己満足で」
内面に浸る行為でも無い。
この世界に興味を失うと
言うことではない。

真にこの世界とアクセス
するには
目を閉じて、耳をすませて

見える、聴こえる世界が
存在することを
自分に許すこと、立つこと

何者かに、悪魔に
足を絡めとられないタメに。

今自分が信じている事を
他者に証明できる必要は
全く関係ない。
と思って今までやってきた。

けれどこの映画の監督の
ようにそれを誰にでも
わかるような形にして
追いかけていく。

それを広めていこうと
言う生き方をずっと
してきている人が
いるんだと知って

この考え方と言うのは
ある意味「死んでいる」
のだなと気付かされました。

生きると言う事は
そんなに簡単に
人に証明でき無い。
本当に生きている
死んでいると言うのは

「実際のところ」

本人にしかわからない
本当にところは。
それを躍起になって
証明しようとすること。
自分自身の全てを。

言葉にしなくても
知らないから動けない
知らないから自分よりも
もっとわかっている人
あるいはものに頼ること。

そこには肩肘を張った
生き方がある。
自分のうちにすべての
答えを持っている「その一方で」
本当に大切な事は自分が
何もわかっちゃいないのだと
言うここが「両立する」
と言うことを本当の
意味でわかっていること。

仕掛けを作ること

一流のアスリートの
選手のように
自分がそのポーズをとることで
無意識を引き寄せること。

後半の「祈る」と言う
映画においては
私は今までお恥ずかしい
ことにこの祈ると言う行為
自体は力なき者の
すなわち弱者の
最後の残された頼みの綱の
ような捉え方もしていました。

すなわち「私は何もできない
けれどもせめてお祈りだけでも」
と言う相手に対しての
または自分自身に対しての
「エクスキューズ」のような
役割も少なからず含んでいると(-_-;)

私はやっぱり馬鹿野郎です(-_-;)

祈りと言う行為自体
本当に実質的な
力が込められているのだと。

人の力と言うのは
そんなに簡単に測れるものでは
無いのだと少なくとも今
見えているものは
科学と呼ばれる
ものは現代社会では
大いばりしたりして
いるけれども意外と歴史は浅い。

この映画名古屋では
とりあえず昨日まで
だったみたいですが
またどこかで上映
されると思います。

私も人に勧められて
みたのですが
こういう事柄のテーマを
「いろんな人と共有しあえたら」
それだけで人生は
どれだけ豊かに幸せに
なっていくことかもしれません。

それはこの世界に影響
与えていくと言う観点においては
あまりにも遠回りな
そして力なき作業のように
今まで思っていました。

しかしこの映画を見たことで
「その勘違いに」1つの楔を
打ち込むことができました。

今この時に全く違う場所で
別々のことをしていて
それぞれの日常過ごして
いたとしても
「ふとした時に」
「その瞬間だけでもいいから」
そこに思いを馳せることに
やっぱり意味はあったのだ!
ということに
私は少なからず…いや大いに
感動しています!