昨日、「たけしの日本教育白書」をほんの少しだけ観てたら、
コメンテーターみたいな中年の人が、
「自分の若い頃は、こんなんじゃなかった。いじめる側もいじめられる子の気持ちを少しは考えながらやってた。」
なんて言ってた。
また、ヤンキー先生が、
見てみぬふりしてる人の中に、ほんとはこんなことしたらダメだと思っている人がいる、
でもそれを口に出すと今度はいじめられるから、見てみぬふりをすることになっている。
だから、一人じゃなく、5人仲間をつくって声を上げるようにすればいい。
なんてことを言っていた。
なんか違和感…。
いじめる側がいじめられる子の気持ちを考えていじめていた!?
そんなことあるわけがない!
もし、いじめられる子の気持ちがわかったなら、
自殺するほどの苦しい気持ちが共感できるのなら、いじめなんてできないはずだ。
いじめる人は、ただ単にいじめたいからいじめるだけなのだと、私は思っている。
あるいは、いじめるつもりはなかった、「からかっていただけ」と多くの人が言う。
しかし、思春期の、ガラス細工のココロの少年少女には、それが耐えられないイジメと映ることがあるっていうのは、多くの人が共通して言っているはなし。
傍観者が声を上げれば、イジメはなくなる…
たしかに、「声をあげれば」なくなるかもしれない。
でも、ふつう、傍観者は声をあげないだろう、と私は思う。
なぜなら、2人めの同志を探すのは、自分がチクられる「リスク」を伴うからだ。
黙ってれば、自分には被害は及ばないのに、わざわざそんなリスクを負おうとする正義感の強い人は少数だろう。
イジメは昔からあったし、今もあるし、今後もなくならないと思う。
きついことを言うようだが、自分が不幸にもいじめられっ子になってしまった場合、
結局、自分が闘うか、やり過ごすしかないのではないか。
しかし、やり過ごすのは楽なようでいて、実は精神的には相当タフでないとムリ。
したがって、闘うしかない。
遺書にいじめた奴らの名前を買いて自殺するというのは、効果があるようにみえてつまらないことだと思う。
なぜなら、死んでしまっては、自分の遺書がどんな効果があったか見届けることができないからだ。
もしかしたら、何かのアクシデントで遺書を発見してもらえないかもしれない。
遺書を読んだ親が世間体を気にして、隠してしまうかもしれない。
学校に相談したら、学校がもみ消すかもしれない。
したがって、闘うしかない。
大勢に囲まれたら、こわくてウンともスンともいえなくなるのは少しわかる。
私も中学のとき、一瞬目をつけられた時期があり、首ねっこつかまれて持ち上げられたときは、
人形のように、されるがままだった。
今だから、こんな偉そうなこと書けるが、小中学生の頃はイジメもどきにあったときは怖かったし、
親友の何気ない、「○○君って、土人みたいやな。」(…黒かったから。)の一言から、
夏場半そでになるのが恥ずかしくなり、クラブ活動も外でやる球技は「もっと黒くなるから」という理由で除外、
室内競技を選ぶことになり、しまいには人と会うのが恥ずかしくなり、性格にも大きく影響を与える要因となった。
だから、「いじめられたら闘うべし」というのは、私の学生時代の行動からして、矛盾していることだ。
でも、それでも、やはり思う。
「いじめられたら闘うべし!」
『やめろ!!』と、腹の底から声を出して、何回も、何回も、言うことだ。
そこまで言う勇気がなければ、
『なんで私をいじめるの?
もし、私が悪いことしたなら謝るから、いじめるのはもうやめてください!」
と言ってみてはどうだろうか。
また、何気ないからかいにショックを受けたら、
「いまの一言、わたし、ちょっと傷ついたかも…。実は気にしてたんだ。そのこと。」
って言うべし。
いじめている側がほんとに、単にからかってるだけ、としか思ってない場合もあるので、
とにかく、自分がイヤな思いをしていることを口に出さないと、相手に伝わらない。
あと、先生について。
先生のしてあげられることは、「いじめるな」と言うことではなく、
「先生としても一応努力するが、たぶんこの教室にもイジメは起こるだろう、
だから、もし不幸にもいじめられっ子の立場になってしまったら闘いなさい。」
ということを日頃から教育することだ。
「いじめられたら闘う」ことを、生徒のDNAにしみこませることだ。
いじめられっ子にいじめられる要因があることもあるかもしれない。
そんなときも、闘えば、相手だって反駁してくる。
それを聞いてるうちに、自分にも悪いところがあったと気づくこともあるだろう。
ぶつかれば、見えなかったことが見えてくることだってある。
とにかく、闘うことだ。