岸信介と憲法改正① | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
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 安倍首相の5月3日の発言以降、賛否を問わず、憲法改正に向けた対応が加速した感があります。

 

 そのような今の状況に際し、今一度振り返っておきたいのが、自民党結党時、つまり岸信介の時代における憲法改正の動きです。あの時代に何が問われたかを知ることは、「なぜ今憲法改正なのか」を考える上で非常に重要な意味を持っていると思います。

 

 以下、「祖国と青年」昨年6月号の鈴木編集長の論文から、2回に分けてご紹介します。

 

 


 憲法改正を掲げて戦った昭和三十年の選挙

 

 憲法改正に関連して戦後政治史が語られる時、必ず言われるのが、「自由党と民主党が保守合同で自由民主党を結党し、憲法改正を目指したが、選挙で三分の二にわずかに届かなかった」「安倍総理の祖父・岸信介の悲願が憲法改正であった」ということである。逆に言えば、七十年にわたる戦後政治史において、憲法改正が正面から語られたことは、自民党結党時、あるいは岸信介の時代(両者は同じ意味だが)以外に一度もない、ということである。では、なぜ憲法改正という国の根幹に関わる問題が戦後政治において一切語られず、この時にのみ語られたのであろうか。


 まず、「憲法改正を争点にして、わずかに三分の二に届かなかった」というのは、昭和三十年二月二十七日の総選挙(衆院選)である。選挙の結果、定数四六七の議席の内訳は次のようになった。


 民主一八五・自由一一二・左社八九・右社六七・
 労農四・共産二・諸派二・無所属六

 

 民主党と自由党の議席を足すと二九七で、三分の二の三一二議席に一五足りない。一方、左派社会党と右派社会党の議席を足すと一五六で、ちょうど三分の一の議席となる。ここにおいて、自民党が三分の二弱、社会党が三分の一強を占めるという、いわゆる「五五年体制」が確立することになる。ちなみに、自民党の結党はこの年の十一月、社会党が再統一したのは同じく十月である。


 この昭和三十年二月の総選挙がどのような意味を持っていたかは、その前の選挙結果(昭和二十八年四月)と比較すれば明瞭となる。

 

 自由一九九・改進七六・分自三五・左社七二・
 右社六六・労農五・共産一・諸派一・無所属二


 実は、昭和三十年二月の選挙は、いわゆる「自民党と社会党の対決」ではなかった。自由党(吉田茂)が大きく票を減らし、改進党(重光葵)・分派自由党(鳩山一郎)・自由党の一部が合流した民主党(鳩山一郎)が大勝したという、「民主党と自由党の対決」だったのである。そしてその後、民主党が主導する形で自民党が結党されたわけだが、これら一連の「保守合同」を画策した中心人物が、当時民主党幹事長だった岸信介である。

 

 独立回復三年後に問われた国家の路線

 

 自由党の吉田茂といえば、敗戦後の厳しい占領期における政治の、そのほとんどを一手に担い、講和条約発効にまでこぎつけた大政治家である。岸信介らは、その吉田となぜ戦おうとしたのか。


 サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復したのは昭和二十七年四月二十八日である。昭和三十年二月の選挙は、この主権回復から三年後に行われた、というところに重要な意味がある。


 吉田政治の路線は、遠藤浩一氏によれば「一九四六年憲法墨守、親米(従米)半独立、軽武装経済復興至上主義」であった(『政権交代のまぼろし』)。これは、被占領国の路線としては妥当と言わざるを得ないが、当時の吉田首相は独立回復後もこの路線を堅持しようとした。


 一方で、戦時中に外相を務めた重光葵、商工相を務めた岸信介など、戦前の国家の中枢を担った者たちは、占領中は「戦犯」として身柄を拘束されるか、そうでなくても公職追放令によって政治から遠ざけられていた。例えば、重光、岸は「A級戦犯」として逮捕されているし(重光は禁固刑、岸は不起訴)、鳩山一郎、石橋湛山なども公職追放を受けている。


 そうした人々が、独立回復を期に次々と政界に復帰したのであった。重光、岸らは、吉田の「半独立、軽武装」路線に異を唱え、「自主独立」路線を打ち出した。自主独立のためには、憲法改正も再軍備も必要である。重光、岸らはこの時、憲法改正の是非を単独で問うたのではなく、「自主独立」という国家の大きな方向性を打ち出し、その下に憲法改正を訴えたのである。


 このようにして、昭和三十年二月の選挙は、独立回復後の日本の、国家としての大きな方向性を問うものとなった。このまま「半独立」の占領政治を続けるのか、それとも「真の独立」を目指すのか。その結果、国民は「真の独立」を目指すことを選んだ――それがこの選挙の意味であった。


 総選挙で大勝した岸らは、その余勢を駆って保守合同を成し遂げ、自民党の政綱には「現行憲法の自主的改正をはかり」と明記されることになった。


 なお、昭和三十年二月の選挙で大きく議席を伸ばしたのは民主党だけではなかった。「憲法改正によって再軍備が行われる」という危機感から、左派社会党が一七議席も増やしている。そして、社会党の再統一は、左派社会党が主導する形で行われたのである。憲法改正が正面から語られると、その反動で反対派もある程度勢力を伸ばすのは、いつの時代も同じことである。