後醍醐天皇と楠木正成 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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 今日は楠公祭、楠木正成公が湊川の戦いで壮烈な最期を遂げられた日です。

 

 大楠公を偲ぶよすがとして、「祖国と青年」平成27年8月号の連載「後醍醐天皇と吉野」より、上野竜太朗さんが書かれた「後醍醐天皇と楠木正成」をご紹介します。

 

 

■笠置山での出会いと千早城の戦い


 後醍醐天皇の即位された時代は、外からの蒙古来襲による国の疲弊、国内では、皇室の「両統迭立」、武家社会の骨肉合い咬む闘争、宗教界の争いなど分裂と対立が絶えない時代であった。


  後醍醐天皇は、平安時代の醍醐天皇の御代を理想とされ、「承久の変」以来の皇室の衰微を憂えられ、天皇親政を目指し、鎌倉幕府の打倒に立ち上がられた。その後醍醐天皇のご理想に親王方も奮い立ち、臣下とともに奮闘されたのが建武中興の時代である。


 我が国は、国が分裂や崩壊の危機に瀕した時、天皇が日本のあるべき姿を示され、臣下がその天皇のご理想の実現に努め、国を再生してきた。日本の道義ある治世を目指された後醍醐天皇と親王方、臣下の絆は、日本の正道を示すものである。今回は、後醍醐天皇と忠臣・楠木正成公の「日本の理想を示された天皇と奉答申し上げた臣下の姿」に迫っていきたい。


 後醍醐天皇と楠木正成公を語る上で欠かせないのが、笠置山での有名な場面だ。元弘元年(一三三一)、後醍醐天皇は、二度目の討幕計画を慎重に進められるが、一度目に続きその計画も幕府の知るところとなり、鎌倉幕府は大軍を京都に差し向ける。後醍醐天皇は、わずかな臣下と共に御所を脱出され、京都の笠置山に行幸される。失意の中にあられた後醍醐天皇はある夜、大きな常盤木の南側の枝が見事に栄え、その木の下に南へ向いた御座がしつらえてあるという夢をご覧になった。後醍醐天皇は、木に南と書くのは「楠」であるとして、河内国の武士であった楠多聞兵衛正成を召され、楠木正成公は笠置山に馳せ参じたのであった。


 その際、後醍醐天皇は正成公に「如何なる謀を回らしてか、勝つ事を一時に決して、太平を四海に致さるべき」(いかなる計画をもって、戦いに勝利し、天下を安らかに治めることができるだろうか)とお尋ねになられた。この「太平を四海に致さるべき」というお言葉より、太平を四海に致すのが後醍醐天皇の深い祈りであることが拝察される。その祈りは、後醍醐天皇の次の御製にも表れている。


世治まり民やすかれと祈るこそわが身に尽きぬ思ひなりけれ


 「祈るこそ」というお言葉からは、国と民の安寧を理想とされ、祈りを捧げずにはおれないとの切なるご姿勢が拝される。


 先のご下問に対して正成公は、「合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負をば必ずしも御覧ぜらるべからず。正成一人未だ生きて有りと聞こしめされ候はば、聖運つひに開かるべしとおぼしめされ候へ」と奉答された。自らの身を顧みず国民を思われる君に対して、正成一人いるならば、必ずやその理想を実現せしめるという強い決意、覚悟の想いを奏上された。


 その後、楠木正成公は、河内国赤坂・千早で挙兵し、押し寄せる幕府軍と戦われた。その間、後醍醐天皇が幕府の兵に捕えられ、隠岐の島に配流の身となられる。他の臣下も次々に捕えられ、後醍醐天皇の目指された理想もここで潰えてしまうかに見えた。


 しかし、この状況を打開したのが、楠木正成公であった。正成公は、幕府の大軍に攻めたてられ、赤坂城から千早城に移る。幕府軍は、四方八方から千早城を攻めたてるが、急峻な千早城の地形を活用し、智謀に富んだ作戦を用いた正成公の戦略に攻めあぐね、半年経っても千早城を落とすことはできなかった。この事は、鎌倉幕府の威信を大きく傷つけ、この間に天皇方に呼応して挙兵する武士たちが次々に現れてきた。そして、京都では足利高氏が天皇方に寝返って六波羅探題を滅ぼし、関東では新田義貞が鎌倉を攻めたてて、ついに元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府は滅亡した。


 私は先日、この千早城を訪れた。まさに「自然の要塞」である千早城の急峻な山肌を見ながら登ると、正成公の戦いの様が甦ってきた。当日は風が強く、うっそうと生えた木々たちが風に揺れるたびに響くざわめきのような音は、まるで千早城を取り囲む幕府軍の鬨の声のように感じられた。この小さな山城で半年もの間、幕府軍を釘付けにした楠木正成公の心中をお偲びすると、隠岐に流された後醍醐天皇に申し上げた「正成一人」のお言葉が迫ってきた。千早城は最後の砦であり、自らが倒れれば後醍醐天皇の理想も潰えてしまうという想いが、千早城を最後まで守り抜かれた正成公を支えていたのだと思う。


  幕府打倒の報を受けた後醍醐天皇は、隠岐より京都へ還幸される途中、兵庫にて正成公と対面される。先に正成公が笠置山にはせ参じた際は、後醍醐天皇の御簾は下がっていたが、この時は御簾を高く捲かせられ、「大義早速の功、ひとへになんぢが忠戦にあり」と直接正成公の功績を称えられた。これに対して正成公は畏まって「これ君の聖文・神武の徳に依らずんば、微臣いかでか尺寸の謀を以て強敵の囲みを出づべく候はんや」(文武両道に秀でられた天皇様の御徳あってのこその成功であり、私如きの一微臣の及ぶところではございません)と奉答したのである。


 隠岐に流されても、理想実現の為に祈り続けられた後醍醐天皇と、大君の理想に命を賭してお応えした正成公の御姿に、日本の「君と臣の美しい姿」が感じられる。


■櫻井の別れと天皇御守護の責任感


 楠木正成公の後醍醐天皇の忠義を考えるうえで、正成公がその子正行公に父としての願いを託す「櫻井の別れ」の場面は重要だと思う。鎌倉幕府が滅亡して建武の中興は一度は成ったものの、武士の不満を巧みに利用した足利高氏が反旗を翻したために数年で瓦解。後醍醐天皇は、楠木正成公や新田義貞に足利高氏討伐を命ぜられ、再び世は戦乱へと突入する。


 正成公は、湊川に赴く事となり、その途中、櫻井にて幼い息子の正行公を河内国に帰そうとする。正行公は頑として自らも合戦に参加しようとするが、正成公は、たとえ足利の世になろうとも、忠義を失わず、楠木一族が亡びるまで天皇をお守りするのだという強烈な願いを託し、正行公を故郷へと帰した。そして湊川に赴かれ、壮絶な戦いを繰り広げ、「七生報国」の決意と共に討死されたのである。


 この楠公父子の別れの場面について、葦津珍彦氏は、「あの純情な大楠公が嗣子正行を櫻井の駅から河内へ帰された。それは説明するまでもなく、自分が生きて(至尊御守護)の大責任を果し得ざる事を知りその子をして責任を継承せんがためであつた。楠公の心境はただ一族郎党打連れて、櫻花の如くに、美しく散りさへすれば、武士が立つといふ様な淡々たる者ではなかつた。天下の大勢如何にならうとも、天の命数如何に相成らうとも、石に噛りついてもこの大責任を果たさねばならぬと思つた」(『論集』原文正字)と述べる。自らの死を見通したうえで、後醍醐天皇をお守りする大責任を正行公に継承しなければならぬとの信念に、大楠公の忠義の深さを見る思いがする。


 正成公の首塚は、河内の観心寺に今も祀られている。首が足利方より返されたとき、正行公は激情のあまり切腹しようとされるが、それを涙ながらに留めたのは正行公の御母堂だった。「(正成公は)今一度軍を起し、御敵を滅ぼして、君を御代にも立てまゐらせよと言ひ置きしところなり。その遺言つぶさに聞きて、われにも語りし者が、いつの程に忘れけるぞや」という母の言葉に、正行公は大君に仕えて朝敵を倒す一事を心に刻んで成長していかれる。正行公を始め、楠木一族の先人方は、正成公の首塚にその「信念」を感じつつ、正成公に続かんとの想いで戦いに赴かれたのではないだろうか。


■後村上天皇と楠木正行公


 その後、後醍醐天皇は吉野に潜幸され、吉野から再び京都への帰還を遂げようとされるが、延元四年(一三三九)ついに崩御される。後醍醐天皇のご遺志は、その皇子である後村上天皇に受け継がれていく。


 そして、室町幕府の高師直が南朝を攻めた時、それを阻止しようと出陣した楠木正行公が、後村上天皇のおられる吉野に参内される。正行公は「私の父正成は、先帝後醍醐天皇をお守りする為に湊川で討死いたしました。その時幼かった私も成人に達しました。今度こそ懸命に戦わねば父の命に背くことになります。師直の首を取るか、わが首を敵に取られるかの覚悟を決めて、生あるうちに今一度お目にかかりたく参内いたしました」と鎧の袖を涙に濡らしながら申し上げた。


 後村上天皇は、「これまでの戦いは見事なものであったが、今度の合戦は敵も総力をあげて攻めて来ると聞く。天下の安否がかかっているが、進むも退くも機に応じて戦うのが勇士というもの、私はお前たちをかけがえのない臣だと思い信頼している。慎んで命を全うしてほしい」とお述べになった。「天朝に仕えよ」という亡き父の遺志そのままに戦いに赴く楠木正行公と、臣下を想う後村上天皇の御姿に、君と臣の深い絆が感じられる。


 正行公は、如意輪寺に「かへらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と刻んで吉野を後にし、大阪・四条畷にて討死したのであった。如意輪寺では今も、正行公が矢じりでこの辞世を刻んだ扉が残っている。