ベトナムの独立と残留日本兵 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 前回の続きで、今日は「祖国と青年」平成25年12月号の竹下博喜さんの記事から、大東亜戦争前後の日本とベトナムの関係について記された箇所をご紹介します。

 

 大東亜戦争について、多少勉強している人なら、マレーシアやインドネシア、ミャンマーについてのイメージは湧くと思いますが、「はてベトナムはどうだったかしら?」と考えると、首をかしげる人が多いのではないでしょうか。

 

 

 ベトナムのフランスによる植民地支配の生々しい実態を知ろうとするならば、ホアロー収容所跡が適所といえる。ここには、ベトナム人が奴隷として扱われている蝋人形や実際に使用されたギロチン台などがおどろおどろしいまでに展示されている。見ていて気持ちのいいものではないが、奴隷制度の悲惨さが肌身に感じられたのは確かだった。大東亜戦争で、欧米人から奴隷にされ虐げられるアジア人を解放しようと立ちあがった当時の日本人の怒りが分かるような気がした。


 ここで少し大東亜戦争におけるフランス領インドシナ(ベトナム)の進駐について振り返ってみたい。日本軍は昭和十五年に北部仏印に、昭和十六年に南部仏印に進駐した。しかし、日本政府はフランスのヴィシー政権がドイツの傀儡政権であったことから、目的を援蒋ルートの禁断とし、「仏印の主権を侵さず、領土を尊重する」との協定を結んだため、仏軍と交戦することはなく、「アジア解放軍」として歓迎していたベトナム人を落胆させることとなる。しかし、戦争が長引くにつれ、ヴィシー政権の影響力が弱まり、ロンドンに亡命し連合国側についていたドゴール政権が力を発揮してきたことで仏軍は反日的行動をとるようになった。仏軍と連合国の共闘が予想された為、日本は昭和二十年三月九日に明号作戦を実行する。仏軍を僅か三日でほぼ完全に武装解除させ、同十一日にはベトナム帝国を樹立、更にはカンボジアとラオスの独立も果たした。


 しかし、八月十五日の終戦によって、捕虜となっていた仏軍が戦勝国となり、一夜にして、仏軍が日本軍を捕虜にするという逆転現象が起きた。再度フランスに支配されることを恐れたベトナム人は決起し、独立運動を展開するようになる。半年とはいえ、日本がベトナムに施した支援はフランスの再度の支配を容易にさせなかった。更に、日本兵のうち約七百名は帰国せず、名前をベトナム名に変えてまで共に闘ったのだ。この独立運動を勇敢に戦った英雄とされるボーゲンザップは、後にベトナム独立における残留日本兵の功績を讃えている。


 ダナンの外務局副局長マイ・ダン・ヒュウ氏が日越友好四十五年の時には、残留日本兵の闘いと現地ベトナム人の恋愛をドラマ化したいと言われていた。ベトナムは、ホー・チ・ミンが共産主義者であったことから、独立時には「ファシスト日本からの独立」と謳っていた。そのベトナムが、ファシスト日本兵であるはずの残留日本兵を扱うドラマの提案をしようとしている。実現するか否かは別として、このような日越共闘の歴史を甦らせようとする気運があることに大きな意義を感じた。私たち日本人は、改めて大東亜戦争で戦った先人たちの歴史を正しく掘り起し、総括すべき時にきていると思う。