吉田松陰と松下村塾① | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」では、これまで歴史体験セミナーに合わせて「吉田松陰と松下村塾」をテーマに連載記事を掲載してきました。

 

 明日10月27日は吉田松陰の命日でもありますので、和田浩幸さんが「祖国と青年」7月号で書かれた連載記事から、吉田松陰と松下村塾について言及された箇所を以下にご紹介します。

 

 

 吉田松陰による「松下村塾」が開かれたのは、安政三年八月から同五年十二月までのわずか二年ばかりの期間である。野山獄から放免され、杉家の幽室での謹慎生活を余儀なくされた松陰だったが、父杉百合之助、兄梅太郎らの心遣いを受け、はじめは父と兄、叔父の久保五郎左衛門たちを聴き手に、野山獄で中途に終わっていた『孟子』講義が再開された。この講義の噂はたちまち町に広まり、近所の若者たちが集まるようになると、やがて杉家の一室では手狭になったため、増築することとなった。完成した塾舎は、わずか講義室八畳、控室などのために増築された十畳を併せても十八畳の広さである。松陰神社を訪れると実寸の松下村塾を見ることができるが、この小さな一室に多い日は三十名もの塾生たちが集っていたというから驚きである。


 松下村塾は「来る者拒まず」という考え方を基本とし、藩士から足軽まで、当時の身分に関係なく学問を志す多種多様な人材が集っていた。入塾者に対して、松陰は「御勉強されられい」と声をかけ、何故学問をするのか、次のように説いたのだという。


「初めて先生に見え、教を乞ふものに対しては、必ず先づ何の為に学問するかと問はる。これに答ふるもの、大抵、どうも書物が読めぬ故に、稽古してよく読めるやうにならんといふ。先生乃ちこれに訓えて曰く、学者になってはいかぬ、人は実行が第一である。書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなりと。この実行といふ言は、先生の常に口にする所なり」(「渡辺蒿蔵談話」)


 また、松下村塾の講義室には、竹に刻まれた松陰直筆の次の言葉が掲げられ、塾生の心を奮い立たせていた。


「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人と為るを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん」


 松陰は塾生たちを「諸生」或いは「諸友」と呼び、「教授は能はざるも、君と共に講究せむ」と、共に学問に励む同志として鼓舞し続けた。塾生の中には、高杉晋作のように夜な夜な家を抜け出してやって来る者もあり、ひっきりなしに人が出入りしていた。寄宿生もおり、寝食を共にしながら、各々の志、思いを語り合って、一つ屋根の下で志を磨き上げていったのである。

 
 「塾のめざすべき理想を文章にしてほしい」と頼まれて松陰が書いた「松下村塾記」には、「今、松下は城の東方にあり。(略)故に吾れ謂へらく、萩城のまさに大いに顕はれんとするや、それ必ず松下の邑より始まらんかと」「誠に邑人をして、皆進みて上等の選たらしむれば、則ち吾れの前言未だ必ずしも其の大なるを憂へざるなり」とある。


 「松下村塾から、日本を変える人材を輩出させる」という松陰の決意が込められた一文であり、この志のままに松下村塾での塾生との研鑽の日々が重ねられていくことになる。