「象徴としての務め」とは何か | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」11月号の、天皇陛下のお言葉に関する田尾憲男先生のインタビュー記事に掲載されている表(P34)について、若干解説をしておきたいと思います。

 

 「天皇の行為の三分類」と題したこの表について、本文で直接の言及はありませんが、天皇の行為は法的に「国事行為」「公的行為」「私的行為」の3つに分類されます。4つまたは5つに分類されるという説もありますが、それはこの3分類をさらに細かく分けたものと理解できます。

 

 このうち、憲法が規定しているのは「国事行為」で、天皇陛下が「象徴としての務め」という言葉で言及されているのは「公的行為」です。これは憲法に規定された天皇の役割ではないものの、「象徴」という地位に伴って生ずる行為として認められてきたものです。陛下が「象徴としての務め」を模索してこられ、それに法的な根拠を与えたものと言えるでしょう。

 

 さて問題は、天皇として最も大切なお務めである宮中祭祀が、国事行為どころか公的行為にも含まれず、未だに「私的行為」とされていることです。その経緯については田尾先生が述べられている通りですが、この問題点を鋭く突かれたのが三島由紀夫さんでした。三島さんは憲法について論じられた「問題提起」の中で、次のように述べておられます。

 

 歴史、伝統、文化の連続性を記念し保障する象徴行為である祭祀が、なほ天皇のもつとも重要な仕事であり、存在理由であるのに、国事行為としての「儀式」は、神道の祭祀を意味せぬものと解され、祭祀は天皇家の個人的行事になり、国と切り離されてゐる。しかし、天皇が「神聖」と完全に手を切つた世俗的君主であるならば、いかにして「象徴」となりえよう。(中略)世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる天皇は、正にその時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。

 

 天皇の「象徴」たる所以は「祭祀」にある、との三島さんの指摘は、「象徴天皇の務め」について考えるに際し、今日においても重要な問題提起を含んでいると思います。